吸血鬼の歴史に詳しくなるブログ

吸血鬼の形成の歴史を民間伝承と海外文学の観点から詳しく解説、日本の解説書では紹介されたことがない貴重な情報も紹介します。ニコニコ動画「ゆっくりと学ぶ吸血鬼」もぜひご覧ください。

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アメリカ版「浦島太郎」として有名なリップ・ヴァン・ウィンクルにまで捏造に手を染めていたピーター・ヘイニング【捏造疑惑シリーズ⑩】

シリーズ目次(クリックで展開)吸血鬼小説『死者よ目覚めるなかれ』の作者はティークではなくて別人だった!本当の作者とは!?
(ヘイニングの不正を知る前の記事)
女性作家による最初の吸血鬼小説「骸骨伯爵、あるいは女吸血鬼」が捏造作品だったことについて
古典小説「フランケンシュタインの古塔」はピーター・ヘイニングの捏造?他にもある数々の疑惑
ホレス・ウォルポールの幻の作品「マダレーナ」が、別人の作品だった
女性で最初に吸血鬼小説を書いたエリザベス・グレイという作家は存在していなかった
ドラキュラに影響を与えた作者不詳の吸血鬼小説「謎の男」の作者が判明していた
ドラキュラのブラム・ストーカー、オペラ座の怪人のガストン・ルルーに関する捏造
吸血鬼小説「死者よ目覚めるなかれ」の作者を間違えたのは、ピーター・ヘイニングではなかった?
吸血鬼小説「死者よ目覚めるなかれ」を1800年作と紹介してしまったのは誰なのか
【追補】吸血鬼小説「謎の男」の作者判明の経緯について
⑩この記事


生前、いくつもの古典怪奇小説を「発掘」「新発見」したとして有名になった、イギリスのホラー・アンソロジストの故ピーター・ヘイニング。彼は、その数々の「新発見」の実物を見せることはなく、その「新発見」した大半(もしくはその全て)が、彼による捏造である可能性が極めて高いと考えられている*1。ヘイニングの厭らしいところは、彼の捏造疑惑にはその殆どに逃げ道があり、彼の捏造であると完全に断定できないところだ*2。だが肝心のヘイニングも2007年に亡くなっているから、問いただすことはもうできない。これまでの記事を見てきた方にはお分かりになろうだろうが、彼の主張のせいで誤った説が長年流布してしまった。そして多くの研究者が多大な労力をかけて検証している。それを考えれば、彼の所業はもはや許してはならないとさえ思っている。


そんなヘイニングの疑惑は、私が知りうる限りのことはこれまでに記事で紹介した。以前、流石にもう打ち止めだろうと言ったが、また彼の捏造疑惑案件を発見してしまった。しかもそのうちの一つが吸血鬼の短編であるから、このブログの趣旨としては紹介せざるを得ない。そして判明した彼の捏造だが、アメリカ版浦島太郎として有名なリップ・ヴァン・ウィンクルについてまで捏造していたことを発見、これにはもう驚くしかなかった。最初その言及を見つけたとき、「リップ・ヴァン・ウィンクルほどの著名な作品を捏造なんてしたらすぐにばれるから、いくらヘイニングでもそんなことはしないだろう。流石に書き込んだ人の勘違いかなにかでは?」と思ったぐらいだ。だが実際調査したところ、ヘイニングは私の想像の斜め上のことをやらかしていたことを掴んだ。ということで、今回もヘイニングの数々のやらかしについて紹介していこう。最初はヘイニングの不正以外のことも言及していく。それは日本では知られていない吸血鬼作品の話題が含まれているため。このブログの趣旨と、そして何より個人的興味を引いた為、話の流れに沿って紹介させて頂くので、どうかご容赦願いたい。



間違いだらけのヘイニングのアンソロジー

www.vampire-load-ruthven.com www.vampire-load-ruthven.com

上記のヘイニングの捏造疑惑⑥:ドラキュラのブラム・ストーカーやオペラ座の怪人のガストン・ルルーにまつわる疑惑解説のとき、流石にもうこれ以上のヘイニングの不正は出てこなかったと説明した。あの記事ではアメリカの作家兼編集者のダグラス・A・アンダーソン氏のブログから主に引用した。その記事の作成後は次の記事との話題として、1823年:エルンスト・ラウパッハ作「死者を起こすことなかれ」が、なぜ1800年作として発表されたのかということを記事にしようとしていた。この作品の作者をルートヴィヒ・ティークと間違えて紹介したのはピーター・ヘイニングが最初で、以後ヘイニングの説が広まったとされていた。だが発表年月日のミスについてはヘイニングは関係していなかったので、一体だれが最初に間違えてしまったのかが気になり調べていた。その調査の過程で、実はヘイニングよりも前に作者を取り違えて紹介していた人がいたことが判明、この作品の作者の取り違えに関してだけは、ヘイニングは無実の可能性も出てきた。以上の経緯は上記の過去記事で解説してきたとおり。ヘイニングより前に作者を間違えていた人がいたことは、先ほどのアンダーソン氏が自身が運営するブログ「あまり知られていない作家」で言及されていたので、私の上記の記事でも引用させてもらった。


desturmobed.blogspot.com


上の記事は「ジョージ・ブリンク」と言う人の紹介記事で、ブリンクの劇はラウパッハの「死者を起こすことなかれ」がもとになっているという解説がされている。そのコメント欄において、ラウパッハの「死者を起こすことなかれ」が、作者がルートヴィヒ・ティークだと間違われていたが、実はヘイニングよりも前にチャールズ・コリンズが既にティークだとして間違えて紹介していたなど、「死者を起こすことなかれ」について色んな質疑が飛び交っている。


少々余談を。ラウパッハの「死者を起こすことなかれ」は、長年作者がルートヴィヒ・ティークだとして間違われていた。それをラウパッハが本当の作者であると最初に日本に紹介したのは、当ブログがはてなブログへ来る前、2017年にニコニコのブロマガで紹介したのが最初だろうニコニコブロマガのリンク)(はてなブログ移行後のリンク*3
2017年当時はまだ、アンダーソン氏のブログ記事の存在を知らなかった。


話を戻そう。こうした「死者を起こすことなかれ」に関する質疑が落ち着いたあと、ヘイニングの他の不正案件についても言及する人が現れた。アンソニー・ホッグと言う人が、ラウパッハの「死者を起こすことなかれ」について色々質問し、それに対してアンダーソン氏が答えたあと、ケビン・トッドという人が話の流れに沿って次のようにコメントを残している。


ケビン・トッドのコメント


ケビン・ドッド11月9日, 2013 at 11:03 AM
実は「魔術師たち」も(ヨハン・ルートヴィヒ)ティークの作品ではありませんでした。私はそれが彼の素晴らしい小さなアンソロジー "ベスト吸血鬼物語1800年から1849年 "をコンパイルする際に脇に置く物語としてアンドリュー・バーガーによってリストされていたため、それを読んでいました。「死者を起こすことなかれ」よりもはるかに、重厚なキリスト教的表現で、完全に誤植と思われた。

何日もかけて探し回った結果、Ludwig von Baczkoの『Der Zauberer』という作品であることが判明した。この本は1800年頃に「Legenden, Volkssagen, Gespenster- und Zaubergeschichten」(インディアナ大学)という本に掲載されたもので、そのコピーはハティ・トラストがデジタル化している。原書には日付がないが、3巻のうちの1巻と記されている別の印象には、1815年の日付がある。

私はついに自分で答えを見つける望みを捨ててしまったので、あなた方のどちらかが別の難問に興味を持つかどうかわからない。それは、同じくバーガーがリストアップし、拒絶した短編小説に関係するものだ。シャルル・ピゴー・ルブランの「禁じられた神聖な契約」だ。 ピゴー・ルブランがこの作品を単独で発表したことはないはずだが、余談として別の物語に組み込まれているのかもしれない。私は彼の著作についてまったく専門知識がないのだ。ピーター・ヘイニングが1972年に出版した「Gothic Tales of Terror」で初めて英語でアンソロジスト化されたようです。ヘイニングは、この作品が1825年頃にロンドンのThe French Novelistという週刊誌にフランス語から翻訳されて掲載されたと書いている。この週刊誌の存在は確認できたが、存在しないわけではなく、ヘイニングは通常、利用できる学問に関しては信頼できると考えている

1827年3月10日号New-York Mirror, and Ladies' Literary Gazetteには、このテキストは「愛のヒロイズム」というタイトルで、著者や翻訳者の記載もなく、主人公の名前も違っている。しかし、それ以外は同じ英語版である。そこでは、もう一つのファウスト物語の文脈で考察されており、適切であると思われる。いずれにせよ、この物語が鏡の国のオリジナルであるという結論に至るものは何もなく、出典が別の場所であると指摘するものばかりである。それがどこであるかは謎のままでなければならない。

インターネット上でこのようなことをするのは初めてなので、私の電子メールアドレスを記載しておきます。 何はともあれ、この「Blog on Blink」を書いてくれたお二人に感謝します。ヘイニングは、特にエリザベス・グレイが『Vampire Omnibus』で主張しているような『骸骨伯爵あるいは女吸血鬼』など書いたかどうか疑わしいほどで、彼自身が偽造したと結論づける人もいるので、何かと間違いを置きやすいターゲットになっているような気がします。私は、もし最終的に捏造と証明されたとしても、ヘイニングが素直に間違えただけだろうと考える数少ない一人です


ヘイニングの1972年のアンソロジー"Gothic Tales of Terror 第2巻"と"Great Tales of Terror"。調べてみたら内容は同じ。どうもアメリカで発売したのが"Gothic Tales of Terror 第2巻"(ISFDBリンク)で、イギリスで発売したのが"Great Tales of Terror"らしい(ISFDBリンク)。私はアメリカ版を以前より入手している。


ケビン・トッドさんの話を要約すれば、ヘイニングは"Gothic Tales of Terror 第2巻"で、「禁じられた神聖な契約」"The Unholy Compact Abjured"シャルル・ピゴー・ルブランの作品だと主張して紹介したが、その証拠が見つからなかったという(ちなみにこの作品は吸血鬼が登場する短編である)。ただ、別の雑誌に掲載されていた「愛のヒロイズム」という作品にほぼそっくりなことを発見、そこでは主人公とヒロインの名前が別名になっていたという。そして最初に私のブログで指摘した「骸骨伯爵」の捏造案件にも触れている。彼は人が良いようで、例え最終的にこれらが捏造だと証明されても、ヘイニングが素直に間違えただけだと考えるだろうと述べている。


これに対して、これまで自身のブログや書籍で散々ヘイニングをこき下ろしてきたアンダーソン氏は、「私はヘイニングのことは信用できない。彼の書いたもので他に証明されていないものは全てチェックしなければならない」と、あくまでヘイニングは信用ならないことを主張する。そしてヘイニングが主張した「骸骨伯爵」のソースが確認できいないこと、「禁じられた神聖な契約」はヘイニングの捏造だと思うし、ヘイニングの他の捏造に関しては、アンダーソンが運営するもう一つのブログ”Wormwoodiana”にも書いたとある。この捏造に関してはこのブログでも紹介させて頂いた


あくまでヘイニングを疑う姿勢を崩さないアンダーソン氏に対してトッド氏は、それでもヘイニングに対する評価に対して慎重な姿勢を崩さない。その理由は、「骸骨伯爵」を収録した"Vampire Omnibus"には“The Bride of the Isles"「島の花嫁」という、いわゆるシリング・ショッカーと呼ばれる作品を挙げる。そしてヘイニングはその名も「シリング・ショッカーズ」という本を出しており、そこには「島の花嫁」の表紙の複製もあったので彼の主張に少しは信ぴょう性がもてたことを主張する。その後UCLA*4の図書館を探したところ、世界で唯一この本のコピーがあり、ヘイニングが主張したのとほぼ同じ情報が載っていた。だからトッド氏は、ヘイニングの人物とその判断の信ぴょう性について慎重に判断を下すと主張する。


"Vampire Omnibus"は日本では「ヴァンパイア・コレクション」というタイトルで角川文庫より刊行されており、問題の「島の花嫁」も収録されている*5。ニコニコ動画で紹介したときは、まだヘイニングの捏造を知らなかったので彼の解説を鵜呑みにして紹介したが、どうやらこれに関しては信用できそうなので、ほっとした*6。ただヘイニングの「シリング・ショッカーズ」には、「フランケンシュタインの古塔」という作品が収録されており、こちらはヘイニングの捏造の可能性が極めて高いことは以前も紹介した通り過去記事参照。というか荒俣宏氏により、日本で初めてヘイニングの不正に触れた作品で、私もヘイニングの評価を180度変えることになった作品だ怪奇文学大山脈1より。せめてこの件がなければ「シリング・ショッカーズ」には関しては恰好がついただろうに。


閑話休題。トッド氏はアンダーソンが主張する「証明できないものは全てチェックしなければならない」ということについては、別にヘイニングのみならず誰に対しても言えることだと主張する。その例として、彼は19世紀の吸血鬼文学のまとめを作成しているが、そこには研究者が先行研究の主張をそのまま受け入れるという憂慮すべき事態を発見したという。それはオットー・ペンズラー"Otto Penzler"のアンソロジー"The Vampire Archives(2009)"に収録された作品を挙げている。


ペンズラーのアンソロジー"The Vampire Archives(2009)"
Amazon | The Vampire Archives: The Most Complete Volume of Vampire Tales Ever Published | Penzler, Otto, Newman, Kim, Gaiman, Neil | Occult


このアンソロジーの中に、ヒューム・ニズベット"Hume Nisbet"の短篇、「古い肖像」 “The Old Portrait"と「吸血鬼メイド」“The Vampire Maid”という作品が納められている。その内「吸血鬼メイド」は、「1890年に雑誌に発表され、1900年に『奇妙で不思議な物語』"Stories Weird and Wonderful"(ロンドン:ホワイト)に、初めて書籍として収められた」とペンズラーは説明している。「吸血鬼メイド」には終盤、コウモリが登場する。トッド氏は「吸血鬼メイド」が書かれたのが1890年なのか、それとも1900年なのかにこだわる。もし「吸血鬼メイド」が1890年に書かれたものであるのならば、「吸血鬼とコウモリ」を、1897年の「吸血鬼ドラキュラ」よりも前に結び付けた作品となり、ブラム・ストーカーを予期した最初の作品になるからだ。


補足しておくと、血を吸うコウモリの存在は18世紀には既に知られており、フランスの博物学者のビュフォン17961年に、ラテン・アメリカに生息するコウモリ類に「ヴァンパイア」と名付けている*7。実際、南米に生息するナミチスイコウモリは、英名で今でもヴァンパイア・バットと呼ばれているようだ。ただ、以前の記事を見て貰って解るように、1897年のドラキュラより以前にも吸血鬼小説は沢山あれど、その吸血鬼小説でコウモリを登場させたのは見当たらない。ここまで言えばお分かりになるだろう。もし1890年作なら、ドラキュラ以前に吸血鬼とコウモリを結び付けた最初の作品となり、その重要性が一気に高まることになる。だからトッド氏は「吸血鬼メイド」が、1890年作なのか1900年作なのかにこだわっているわけだ。ただ、1847年「吸血鬼ヴァーニー」の表紙ではコウモリが描かれているため、吸血鬼とコウモリを結び付けた最初の作品はどれなのかについては、ヴァーニーも含めて考えていかなければならない問題ではあるが。


話を戻すと、どのサイトやアンソロジーを見ても「吸血鬼メイドは1890年に掲載された」という、ペンズラーの主張の引用しか見かけないという。そしてそのペンズラーの主張も、なんら証拠は一切提示されていない。なのでトッド氏は、思い切ってペンズラー本人に問い合わせた。すると親切にも答えてくれたそうだが、その返答は「(吸血鬼メイドに関する)私の主張は数冊前のものであり、現在では原典を辿る術はない」というだけだった。つまりペンズラー氏も二次的な情報源に従っただけであり、そこから元を辿っていくということをしてなかったことが明らかになった。言うまでもなく、ペンズラーの主張には証拠がないので、事実として受け取ってはならないということだ。ペンズラーの主張が事実かどうかはともかく、そのペンズラーの主張がほとんど調査されることなく、素直に受けいれられていることに驚かされるとトッド氏は述べる。


以上のような会話がなされていたのだが、トッドはこれ以上のことは述べておらず、アンダーソンの返信もこれ以降ないので、なんとも煮え切らない話となってしまった。ただ日本では知られていない吸血鬼作品があったため、今回紹介させて頂いた。この件について、自身でも調べてみて何かわかれば紹介しよう。私見を述べるなら、トッドの言い分もわかるが、私はやはりアンダーソンと同意見だ。ヘイニングの数々の「やらかし」を目の当たりにすると、最初から疑ってかかるべきだ。それだけのことをヘイニングはやっているのだから*8


こうしたトッド氏の書き込みのあと、ロヴィアタルという人がコメントを残していったのだが、その書き込みには到底信じられないことが書かれていた。


ロヴィアタル氏の書き込み


ロヴィアタル7月23日、2019で12:32 AM
ISFDB(Internet Science Fiction & Fantasy Database)(ISFDBを知りたい方はこちらをクリック)の調査をしています&もう少し早く出会っていたらと思います ヘイニングの作品集"Gothic Tales of Terror"のいくつかの話は、「血の館」(フォン・クレーマー教授ではなくジュリア・パルドー)&「瞳の魔女」(バキュラール・ダルノーではなくヘンリー・ニール)など、作者を間違えて紹介している。また、「禁じられた神聖な契約」もたどれず、正しい著者をクレジットできないのが本当にもどかしい。The Sorcerorsの話に戻るが、「Popular Tales of the Northern Nations」に掲載されている"The Magic Dollar"という別の物語を誰が書いたか知っている人はいるだろうか。ド・ラ・モット・フーク男爵の作品と書かれているのを見たことがあるのですが、彼の作品と一致しないのです。同じ名前の物語がもう一つありますが、これはアン・プランプルが書いたか訳したかしたものです。こちらはファウスト的な交渉の話です。どなたか作者をご存知の方がいらっしゃれば、助かります。


ロヴィアタル2019年7月23日 at 12:44 AM
私もピゴー・ルブランと「禁じられた神聖な契約」を結びつけるものは見つけ出せません。そして(ヘイニングの)"Gothic Tales of Terror"は(作者の)帰属を間違えているものばかりでヘイニングの墓石を蹴りたいぐらいだ。ISFDBで調べたところ、作者が間違っているものがいくつかあり、有名なリップ・ヴァン・ウィンクルも作者不明によるものとされていました。ピゴー・ルブランの物語について、何か最新情報があれば教えてください。


ロヴィアタル氏がヘイニングのアンソロジーを調べたところ、「禁じられた神聖な契約」どころか、「血の館」「瞳の魔女」という作品も作者を取り違えていることを発見した。もちろん、その「禁じられた神聖な契約」も、ピゴー・ルブランの作品であるという証拠を掴むことはできなかった。ヘイニングがあまにも作者を間違えて紹介していることから、「ヘイニングの墓を蹴りたい」と発言するなど、かなりご立腹なことが伺える(正直、私も機会があればぜひ蹴りたい)。これだけなら私も「まだあるんか……」とあきれるぐらいだっただろう。


だがこのロヴィアタル氏の最後の書き込みには、驚くしかなかった。アメリカ版「浦島太郎」として有名なワシントン・アーヴィングの短編「リップ・ヴァン・ウィンクル」を、あろうことか作者不詳と紹介していたことだ。最初、これは流石に何かの間違いだろうと思った。だが調べてみると、本当に作者不詳として紹介していたのだから、もう唖然とするしかない。


リップ・ヴァン・ウィンクルのみならず他の作品についても、ヘイニングの紹介には信用ならない証拠を見つけ出せたので、一つ一つ紹介していこう。その前にロヴィアタル氏が言及していた「北方諸国の物語とロマンス」"Popular Tales of the Northern Nations"に収録された"The Magic Dollar"の作者の件についても触れておこう。「北方諸国」の第一巻は、過去何度も紹介した吸血鬼小説「死者を起こすなかれ」が収録されており、この作者の間違いもヘイニングのせいだとされていたが、ヘイニングよりも前に間違えていた人がいたことは、以前の記事でも紹介したとおり。その「北方諸国」の第二巻に収録されたのが"The Magic Dollar"だ。ロヴィアタル氏は、その作者はド・ラ・モット・フーク男爵であるとどこかでみたのだがそれを疑問視しており、証拠がないかを探していた。結論を言えば、その男爵が作者である可能性はなさそうだ。英語wikipediaに「北方諸国」の記事があるのだが、そこを見る限りでは、「死者を起こすなかれ」「魔術師たち」の作者はルートヴィヒ・ティークでなく、きちんと本当の作者に修正されている。だが"The Magic Dollar"だけは、作者が不明のままにされている。作者を示す証拠は、未だ見つかっていないようだ。


「血の館」に関する疑惑

最初は「血の館」から。ロヴィアタル氏によればピーター・ヘイニングは、「血の館」"The Hall of Blood"の作者をフォン・クレーマー教授だとして紹介したが、本当はジュリア・パルドーだという。下記は実際にヘイニングの" Gothic Tales of Terror"に収録された「血の館」の紹介文である。

ヘイニングのアンソロジーに収録された「血の館」


ヘイニングの解説によれば、フォン・クレーマー教授"Professor von Kramer"は、ドイツで最も多作な女性ゴシック小説家、クリスティアン・ベネディクト・ウージェニー・ナウベルトの正体を隠すためのものであるという。ライプツィヒの名医ヨハン・ナウベルトの妻であった彼女は、生涯に80冊以上の作品を発表し、そのなかにはイギリスのゴシック小説の優れた翻訳も含まれている。ナウベルト夫人は、夫のために広い自宅と診察室を運営し、ライプツィヒの社交界でおなじみの人物であったにもかかわらず、膨大な数の作品を作る時間を確保し、大変な努力の人生を送ったようである。ペンネームは、人気のある「フォン・クレーマー」以外に、ヨハン・フリードリヒ・ミュラー"Johann Friedrich Müller"ミルビラー教授"Professor Milbiller"など、多くの作品に使われている。おそらく彼女の最も人気のある作品はElizabeth, Erbin von Toggenburg (1789)で、英語も含め数ヶ国語で出版され、マシュー・ルイスによって翻訳されFeudal Tyrants (1806)と改題された。この高名な女性は、ヨーロッパの伝説の偉大な収集家でもあった。そのため、このセクションの他の純粋なドイツ語の物語とは対照的に、ハンガリーの伝統に基づいた彼女の物語をここに掲載することが適切であると考えたのである。この物語(血の館のこと)は、彼女のゴシック様式の優れた例であり、1817年に初めて英語で出版された


以上がヘイニングの解説である。まずはフォン・クレーマー教授こと、ベネディクト・ナウベルトについて紹介しよう。


Daniel Caffé: Benedikte Naubert mit Pflegesohn
ダニエル・コーヒー作:ベネディクト・ナウベルトと養子(19世紀)
ナウベルトに関する英語wikipedia記事
ナウベルトに関するドイツ語wikipedia記事


ベネディクト・ナウベルト(1752~1819)は、匿名で50以上の歴史小説を発表したドイツの作家で、1780年代におけるドイツの歴史小説における先駆者・創始者の一人とされる人物。現在ではほとんど忘れ去られてしまったとされるが、英語wikipediaドイツ語wikipediaにそれぞれ解説記事がある*9


ライプツィヒの医学部教授ヨハン・エルンスト・ヘーベンストライトの娘として生まれる。その父も英語wikipediaドイツ語wikipediaに記事が作られるほどには、著名だったようだ。父ヘーベンストライトは二度結婚しており、今回のナウベルトに関しては二番目の妻の子となる。というか彼の子は彼女以外にも著名だったようで、彼女以外にもwikipedia記事が作られているものがいる。


ナウベルトは神学教授の義兄から、哲学、歴史、ラテン語、ギリシャ語の徹底的な教育を受けた。ピアノとハープを習い、イタリア語、英語、フランス語を独学で学んだ。20代半ばに最初の本”Heerfort und Klärchen”を匿名で出版し、以後、1年に1冊のペースで小説を書き続けた。以後、年に1作、あるいはそれ以上書くこともあった。1797年、41歳のとき、ナウンベルグの商人で領主でもあったロレンツ・ホルデリーダと結婚するが、1800年に死去した。その1800年に彼女は、同じくナウムブルクの商人であったヨハン・ゲオルグ・ナウベルトと再婚する。ナウベルトは年をとるにつれて目や耳が弱くなり、最後の出版物は口語で書くことになった。1819年、目の手術のために渡航したライプツィヒにて死去する。ここでまずヘイニングの解説との相違は、ヘイニングは夫は名医だとしていたが、ドイツ語wikipedia記事では商人ということであった。


ナウベルトは作品を発表する際、匿名若しくはペンネームを使用したという。そのペンネームは、Verfasser des Walther von Montbarry(モンバリー家のワルターの作者)、Verfasser der Alme(アルメの作者)、Verfasserin des Walther von Montbarry(モンバリー家のワルターの作者)*10、そしてFontanges(フォンタジンス)であった。ヘイニングが言う"Professor Milbiller"はwikipediaには書かれていなかった*11


彼女の出版物は高い評価を得ていた。そして世間では彼女の作品は男性が作ったものであると信じられていた。その博学さからヨハン・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ミュラーなどの、何人かの人物が作者候補に挙がったという。テオドール・ケルナーは、フリードリヒ・フォン・シラーに、「これらの作品は全て男性のものであり、しかも平凡なものではないように見える」と書き送っている。ここれでもヘイニングの解説と食い違いがある。ヘイニングはヨハン・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ミュラーはナウベルトのペンネームの一つだと説明しているが、ミュラーは実在してい人物であり、ナウベルトの作品はそのミュラーのものではないかと考えられていたようだ。ミュラーはドイツの彫刻家だ。詳しいことはドイツ語wikipedia記事をご覧頂きたい。


彼女の作品は当時、男性が作ったもの思われていた。だが1817年、彼女の意に反して「エレガントな世界の新聞」"Zeitung für die elegante Welt"の記事で初めて彼女の身元が明かされた。明かしたのはK・J・シュッツという人物なようだが、彼女の身元が判明してからは評価が一変する。多くの批評家たちが「彼女が似ていたんだ。恐らくエミュレートしていた男性を模倣して書いた」という、とんでもない女性差別の評価を下すようになった。以前の記事でも紹介したように、フランケンシュタインの作者メアリー・シェリーも、当時は無記名で出版したがその理由がテクスチュアル・ハラスメント、つまり「女にこんな偉大な作品が書けるわけないだろ!夫(男)が書いたのだろう!?」が原因だという説がある。この差別は今でも残っており、例えばハリー・ポッターの作者J・K・ローリングも、本のターゲットとなる男の子が女性作家の作品だと知りたくないだろうと心配した出版社が、イニシャルを用いるように求めたために、あえて性別を分からなくするためにJ・K・ローリングと名乗った経緯がある。メアリー・シェリーより少し前の世代だったナウベルトは、この風潮は肌で感じ取っていたのだろう、だからこそあえて匿名やペンネームにこだわっていたのではなかろうか。女性が正当に評価されなかったことが伺えるエピソードだと言えよう。


名前が勝手に公開されたあとの次の著作「ロザルバ」"Rosalba"(1817年)では、初めて本名が公表された。wikipediaには彼女の数多くの著作が紹介されているが、ヘイニングが紹介していた"Elisabeth, Erbinn von Toggenburg, oder Geschichte der Frauen von Sargans in der Schweiz. Zweyter Theil"「トッゲンベルクのエリザベート王女、あるいはサルガンスの女性史」も紹介されている。このように、男性と思われていた時ではあるが、当時はかなり評価されていた作家だった人。女性作家としてもっと注目されていてもよさそうな人である。現在ではほぼ忘れ去られてしまったというが、一体どんな作品を作っていたのか気になる人である。


彼女の生い立ちが面白かったのでついつち長々と説明してしまったが、本題に戻ろう。「血の館」という作品を作ったのは、このナウベルトであるとヘイニングは主張していた。だが「血の館」の作品の作者はジュリア・パルドー"Julia Pardoe"であり、ナウベルトが作者である証拠はない。実際、ジュリア・パルドーが作者である証拠を探しだすことができた。


「血の館」が収録された書誌の表紙と実際のページ


当時のコピーとヘイニングのアンソロジーの比較。ヘイニングのものは段落を開けたところから始まっている。

最初の文章
SCARCELY a thousand paces eastward of the gates of the little town of Guens, famous for the lion-like defence of Turissit against the f\great Suleyman in 1532,……


「血の館」(1844)のアーカイブリンク
ハーティトラスト・デジタルライブラリ版
インターネット・アーカイブ版
Googleブックス版


「血の館」1844年にDouglas William Jerroldにより刊行された"The Illuminated Magazine"の第二巻に収録されていた。画像を見て貰ってわかるように、作者名は""Miss Pardoe"と明記されている。そして文章も同じであることがお分かりになるはずだ。このように「血の館」は、1844年のジュリア・パルドーの作品であるという証拠は見つかった。アーカイブも3つのサイトで公開されているほどだ。だがヘイニングはナウベルトの作品であり、英訳は1817年に出たと言っている。ドイツ語原著はもっと前に刊行されたことになる。これが本当なら、パルドーはナウベルトの作品をそっくりそのまま剽窃して、1844年に発表したことになる。マダレーナの時と同じ状況だ。ヘイニングは一体何をみてナウベルトの作品だといい、1817年には英訳されていたと言ったのだろうか。ヘイニングの主張が嘘であると断じるには、ヘイニング自身が認めることでしか証明することはできない。でも彼は既に亡くなっている。これもいつもの悪魔の証明案件だ。証拠がない以上、ヘイニングの主張は信用に値しないものとして扱うしかない。


いつものISFDBのコメントを見ると、[ ベネディクト・ナウベルトの記事は良かったが、ヘイニングはこの作品のクレジットを大きく間違えてしまったようだ」と、ヘイニングの間違いありきで書かれていた。


ジュリア・パルドー
ジュリア・パルドー(英語wikipedia)
(1804~1862)


最後にジュリア・パルドーについて、軽く紹介しておこう。彼女はイギリスの詩人、小説家、歴史家で、彼女の最も人気のあった作品「スルタンの都市とトルコ人の国内マナー(1837)」 "The City of the Sultan and Domestic Manners of the Turks"は、オスマントルコの上流階級に共感をもたらしたという。スペイン系のパルドー少佐の次女で、その父はナポレオン戦争に参加し、ワーテルローの戦いに参加していた。1835年、その父と一緒にトルコに旅行、そこでは疫病の流行によってもたらされた恐怖を目の当たりにした。その経験に触発されて作ったのが、先ほどの「スルタンの都市」だった。彼女の作品の多くはイギリスとアメリカの定期刊行物に連載形式で掲載されていたという。「血の館」もその定期刊行物の連載の一つであったのだろう。その他の情報については、wikipedia記事などをご覧頂きたい。


「瞳の魔女」に関する疑惑

次は「瞳の魔女」"The Witch of Eye"について。ヘイニングはこの作品の作者をバキュラール・ダルノーであると紹介したが、ロヴィアルタル氏によれば実際の作者はヘンリー・ニールだという。これもヘイニングの紹介文を見てみよう。


ヘイニングのアンソロジーに収録された「瞳の魔女」


ヘイニングの解説には次のようにある。多くの学者によれば、フランソワ・トマス・ド・バキュラール・ダルノーの著作は、ほとんどの点で限定的ではあったが、フランスのゴシック様式の発展に最も大きな影響を与えた作家であったという。モンタギュー・サマーズは、この墓場の詩人の時代以前には、フランスの批評家は"le gout du sombre"を完全にイギリスの特徴であると見なしていたと書いている。しかし、彼の技量が、その後、フランスの読者の恐怖物語への関心を呼び起こしたことは間違いなく、彼自身の努力は、英語やドイツで書かれたいくつかの巨匠と正当に比較されることになった。


中略、伝記作家たちによれば、彼はイギリスの歴史に魅了されていたという。そうであるならば、ここで彼を代表するのは、『Nouvelles Historiques』(1774-84)に初出したイギリスを舞台にした物語、「瞳の魔女」"The Witch of Eye"であると思われる。なお、編集者の意見として、この物語の翻訳(1820年代にロンドンで出版された匿名のゴシック物語集から)は、おそらく原作に完全に忠実ではなく、この本の想定読者に向けてある程度書き直された可能性がある。しかし、この重要な人物の作品の中で、現在でも入手可能な数少ない適切な例として、ここに紹介する価値があることは確かである。以上のようにあるので、まずはダルノーがどんな人物なのかを見ていこう。


バキュラール・ダルノーの肖像画と彼の墓

フランソワ・トーマス・マリー・ド・バキュラール・ダルノー
(1718~1805)(英語wikipedia)(仏語wikipedia)


バキュラール・ダルノー"François-Thomas-Marie de Baculard d'Arnaud"はフランスの貴族で、9歳から詩を書き、17歳ですでに3つの悲劇を作曲したという。当時啓蒙思想家として有名なヴォルテール*12が彼を見出し、アドバイスや奨励金でサポートした。プロイセン王フリードリヒ2世の文通相手にも選ばれる。ドレスデンのフランス公使館の顧問に任命され、その後パリに定住する。彼の作品は成功するものの、金持ちになることはなく、老後も深刻な貧困に陥ったという。彼の戯曲で最もよく知られているのは、1790年に上演された"Le Comte de Comminge"で、所謂文学のゴシック・ロマンスに属するものだという。他にも小説、短編小説、詩の作者でもあるが、現在彼は忘れられてしまっているというのが、仏語wikipediaの解説だ。


ピーター・ヘイニングは、ダルノーが"Nouvelles Historiques"(1774-84)を刊行し、そこに「瞳の魔女」が収録されたと言い張っている。ダルノーが”Nouvelles Historiques"を刊行していたのは事実なようで、少なくとも3巻はあるようだ。下が実際Googleブックス上にあるアーカイブである。


Nouvelles historiques: Salisbury. Varbeck. Le sire de Créqui(1776)
他、Googleブックス検索結果


だが、ロヴィアルタル氏の調査では、"Nouvelles Historiques"(1774-84)には「瞳の魔女」は収録されていなかったことが確認された。本当なら私も自分の目で確かめるべきだが、流石に大変なことと、本当の収録物のアーカイブを見つけ出せたので、ロヴィアルタル氏の言うことはまず間違いないと判断した。 「瞳の魔女」の本当の作者は、ヘンリー・ニール"Henry Neele"であった。


「瞳の魔女」が収録された書誌の表紙と実際のページ


当時のコピーとヘイニングのアンソロジーの比較。同じ文章であることが伺える。


「瞳の魔女」(1828)のアーカイブリンク
ハーティトラスト・デジタルライブラリ版(サーチのみ)*13
インターネット・アーカイブ版
Googleブックス版


「瞳の魔女」は1828年、ヘンリー・ニールが刊行した"The Romance of History"の第二巻に収録されていた*14。表紙には"By Henry Neele"とあり、その下にはこのブログでは度々話題になるバイロン卿の言葉を引用している。それはバイロンの叙事詩「ドン・ジュアン」の一節"Truth is strange,Stranger tham fiction"*15ある、つまり日本でも有名な「事実は小説より奇なり」*16と書かれている。「瞳の魔女」はそんな本に収録されていた。


1828年のヘンリー・ニールが刊行した本に「瞳の魔女」が収録されていたことは確認できた。だがヘイニングが主張する"Nouvelles Historiques"(1774-84)に「瞳の魔女」が収録された形跡はない。ダルノーの作品であるという証拠が、一体どこにあったのだろうか。だがいつもの如く、ヘイニングは既に亡くなっているのでそれは叶わない。こちらも「血の館」と同じく、ISFDBのコメント"Another goof by Haining."「またもやヘイニングのおふさげ」*17と、ヘイニングに対してちくりと毒を吐いていた。


ヘンリー・ニールについても簡単にだけ紹介しておこう。肖像画は見当たらないが、英語wikipedia記事が作られるほどには著名だったようだ。彼はイギリスの詩人・文学者で、ロンドンで弁護士もしていたという。地図製作・彫刻家・銅板印刷業者であった、サミュエル・ジョン・ニールの息子で、少なくとも一人の兄がいた。ヘンリー・ニールは、フランス語・ドイツ語・イタリア語については十分な知識を習得したが、ラテン語とギリシア語はほとんど習得できなかった。文学者としては、1814年に「マンスリー・マガジン」誌に匿名で作品を発表したのが最初。これを機に、雑誌や年次誌で人気のある寄稿者となった。そんな彼は「身長が低く、外見は悪く、かなり謙虚で気取らないが、彼の大きな額と彼の眼の光は、心と想像力を刺激した」と説明される。1828年2月7日、過労が要因となり、自宅で自分の喉を切り裂いて自殺する。自殺する9日前からすでに錯乱状態にあったという(一体どんなブラック労働していたんだろうか?)。ジェミマ・メリー・アンという未亡人が残された。以上がヘンリー・ニールの紹介となる。もっと詳しく知りたい方は、wikipedia記事をご覧頂きたい。


「禁じられた神聖な契約」に関する疑惑

それでは最初の話題、「禁じられた神聖な契約」"The Unholy Compact Abjured"の疑惑について説明していこう。先に言っておくと、この短篇は吸血鬼の作品なので、当ブログの趣旨の関係からあとで簡単に内容も紹介させて頂く。ピーター・ヘイニングはこの作品の作者を、フランスのシャルル・ピゴー・ルブランであると主張した。だが多くの人がその証拠が見つけ出せず、ロヴィアルタル氏は「ヘイニングの墓にケリをかましたい」というほど。まずはヘイニングの主張を確認しよう。


ヘイニングによる「禁じられた神聖な契約」の説明


上記の文は次の通り。ピゴー・ルブランは、フランスのゴシック作家の中で最も多作で、おそらく生前も最も多く翻訳されていた作家であった。彼の作品は、死の11年前に初めてシリーズ化されたものでも20巻以上あり、ペンネームを使用していたため、その総計はすでに推定されているよりもさらに大きいかもしれない。
中略、ピゴー・ルブランのゴシック小説は、ロンドンのホルボーンにある出版社が1825年から数年間発行した週刊誌"The French Novelist"に少なくとも2編連載された。この週刊誌は、ピゴーの数少ない短編小説の一つである 「禁じられた神聖な契約」"The Unholy Compact Abjured"(フランスの迷信伝説に基づく)も翻訳しており、以下はこの翻訳例である。


ピゴー・ルブラン
ピゴー・ルブラン(1753~1835)
(英語wikipedia)(仏語wikipedia)(スペイン語wikipedia)


以上がヘイニングの解説なので、ピゴー・ルブランについて紹介しておこう。正式にはシャルル・アントワーヌ・ギヨーム・ピゴー・ド・レピノイ"Charles-Antoine-Guillaume Pigault de l'Épinoy"といい、一般的にPigault-Lebrunと呼ばれる。フランスの小説家・劇作家で、エピキュアの弟子だった。治安判事をを務めていた非常に厳格な父をもつ。だが青春時代は若者らしく破天荒なことをしており、ロンドンの商館で働いていた時、パトロンの娘を連れて駆け落ちする。しかも2度目のときは恋人が逃げた船が沈没して亡くなってしまう。イギリス経由でフランス・カレーに戻ったとき、厳格な父は色々と許せなかったのだろう、父が出した家族封印状"Lettres de cachet"により、投獄されてしまう。18世紀のパリ市民は貴賤を問わず、家庭内で生じた深刻なトラブルを国王に訴えることで、その解決を図ることができた(詳しく知りたい方はこちらのリンクにある論文を参照してほしい)。


その後、彼は王のエリート憲兵隊となるも廃止される。その後新しい女性恋愛を結ぶも、再度父の家族封印状により投獄、この時は2年も投獄された。それでもあきらめず、今度はパリの労働者の娘を誘惑、オランダへ連れていき、今度こそは結婚する。俳優(コメディアン?)を続ける後、フランス語教師にもなる。ようやく幸せを掴んだのだが、彼の結婚を聞いた父は、もはや彼をカレー市民登録簿にもはや存在しないものとして記載、法令により彼は死亡扱いにされてしまう。それを機に彼はピゴー・ド・レピノイから、ピゴー・ルブランへと改名する。その後に創作活動を始めたようだ。訳者や演出家の道へ進もうとしたが、戦争がはじまると再び兵役についてヴァルミーなどで戦い、1793年に兵役を辞した。


1792年、冒険小説"L'Enfant du carnaval"を出版し人気作となる。そしてその成功により父の愛情も取り戻したという(現金過ぎる、法的に殺しておいて厚かましすぎるだろ……)。ルブランの資質は活発さにあったという。彼が最初に小説を書いたときは既に40歳近くだったので、若々しくなかった評価されている。読者は浪費と粗雑におよぶ多くの冒険にうんざりとしたそうだが、動き、想像力の豊潤さ、そして時には細やかで繊細な感性があり、尽きることのない陽気さに夢中になったという。1799年には"Angelique et Jeanneton de la place Maubert"を発表し、これも人気作となる。ルブランの子孫は名を残したものが多くおり、エミール・オジェの祖父であり、ポール・デルレードアンドレ・デルレードエミール・ギアールの曽祖父にあたる。とくにポール・デルレードは日本語wikipediaにも記事が作られるほどの人物である。


ヘイニングによれば、そんなルブランには数少ない短篇小説「禁じられた神聖な契約」という、フランスの迷信伝説に基づいた短編を作っていたと主張する。それは1825年から数年間発行した週刊誌"The French Novelist"に英訳されて掲載されたと言い張っている。この"The French Novelist"だが、これは主要なアーカイブサイトにはおかれていなかった。だが、アンダーソンのブログのコメントにあったように、ケビン・トッドは"The French Novelist"なる雑誌の存在は確認できたといっているので、そのロンドンの雑誌自体の存在は信用できるようだ。だが、「禁じられた神聖な契約」自体の存在は確認できなかったようだ。


そしてケビン・トッドは、この作品が別の雑誌に収録されていたことを発見する。「ニューヨーク・ミラー婦人文芸雑誌」"New-York Mirror, and Ladies' Literary Gazette"1827年3月10号に、「愛のヒロイズム」"The Heroism Love"というタイトルで、収録されていることを発見した。ただ、ヘイニングが掲載したものと比べると、主人公とヒロインの名前が違っているという。これもアーカイブ(書誌版)を発見したので、まずは実物画像を見てみよう。


New-York Mirror, and Ladies' Literary Gazette 1827年3月10号
「愛のヒロイズム」が掲載されたページ 真ん中の段より
へイングのアンソロジーとの比較

左:「愛のヒロイズム」 右:「禁じられた神聖な契約」
赤四角で囲っているのは主人公とヒロインの名前


「愛のヒロイズム」(1827)のアーカイブリンク
ハーティトラスト・デジタルライブラリ版
インターネット・アーカイブ版
Googleブックス版

「愛のヒロイズム」と「禁じられた神聖な契約」の文章比較(PDF)
Dropbox - ピーター・ヘイニングの不正関連 - Simplify your life
プロジェクト・グーテンベルクにある「禁じられた神聖な契約」(ピゴー・ルブランとして)

萩原學様による翻訳
雄々しきは愛 The Heroism of Love.(小説家になろうへ)


アーカイブにあった「ニューヨーク・ミラー」の1827年3月10日号を見ると、題名はフラクトゥールなので見辛いが確かに「愛のヒロイズム」という作品が収録されていることが確認できる。ヘイニングのアンソロジーの比較画像を見て貰ってわかるように文章は同じだが、主人公とヒロインの名前が違っていることが分かる。

愛のヒロイズム:イシドール、ファンション
ヘイニングの本:サン・アマン、ニネット


主人公とヒロインの名前以外は、文章比較サイトでほぼ同じであることは確認できた。もし文章をもっと見比べてみたい方がいれば、上記のドロップボックスにPDFを置いたので、それを参照して欲しい。とまれこうしてみると、なんとも不思議な話である。「愛のヒロイズム」の作者は一切明言されていない。ヘイニングの話が「本当であれば」、この名無しの人物は、ピゴー・ルブランの「禁じられた神聖な契約」の英訳版を、1825年の"The French Novelist"から人物名だけ変えて剽窃したということになる。だが実際には"The French Novelist"に「禁じられた神聖な契約」が掲載された証拠は一切見当たらないし、そもそもルブランがこの作品を書いたという証拠すら、一切見つかっていない。海外在住の人が血眼になって探しても見つからない作品を、いともたやすく見つけたヘイニングは、一体どうやってみつけたのであろうか。是非とも証拠を見せて貰いたいところであるが、それも叶わない。この件もやはり、証拠不十分でヘイニングの主張は、取り上げるに値しないものとして扱うしかないだろう。


さてこの作品もISFDBにおいて、コメントが添えられていた。

この物語はいくつかのタイトルで出版されているが、M. Pigault-Lebrunの名前はない。ピーター・ヘイニングが作家の名前を無闇に引っ張ってくるのを見つけたのは5回目。悲しいことに、人々は彼の言葉を福音として受け取り、アンドリュー・ラングのように彼の過ちを繰り返すのだ。


5回目とあるが、一体どの作品のことなだろうか。とにかくこの脚注を書いた人のウンザリ具合が非常に伝わってくる。アンドルー・ラングはイギリスの詩人、民俗学者だ。民話と妖精物語の収集家でもあった。ラングが何をしたのかは知らないが、恐らく在りもしない民話を「ラングがいったから」といって信じる人が、イギリスには大勢いたのだろう*18。その皮肉をヘイニングにも当てはめたものと思われる。


最後に「愛のヒロイズム」は吸血鬼短篇なので、簡単にだけ内容を紹介しておこう。といってもDeepL翻訳でも肝心な部分が良く分からなかったので、本当に祖筋だけ。サランという町にあるとある墓地には、乙女をしっかりと抱きしめ、威嚇する悪魔と対峙する兵士の姿が掘られたお墓があった。この町の住人はその時起きたことは事実であり、その時の出来事を語るという始まり方。兵士の名前はイシドールといい、心から愛して妻にしようと考えているファンションという従姉妹がいる。ある日帰路についているとき、この国で一番強力な魔女に邪魔をされて、なんやかんやで別のところに連れ込まれてしまう。 そして話を聞くとその魔術師いわく「汝を吸血鬼から救った、やつらの獲物になるかどうかは私次第だ」というので、イシドールは助けを求める。すると「ならばその彼女を生贄にしろ」と言われると、いつのまにか恋人のファンションの部屋にいた。彼女を抱きしめると魔術師が傍におり吸血鬼の餌食になりたくなければ、その女の心臓を刺せ」と言うやいなや、魔術師は悪魔となっていきなりとびかかってくる。だがファンションは、昼も夜も胸に身に着けていた金の十字架を持っていた。この十字架は尊敬すべき司祭によって祝福されたもので、邪悪な者は乙女に近づくことができず、雄鶏の鳴き声が夜明けを告げると、困惑した悪魔は凄まじい声をあげて逃げていった。


そして乙女の叫び声にみんなが集まり、その中には尊敬すべき司祭もおり事の顛末を聞いた後、イシドールを叱責する。曰く「お前は闇の勢力と契約を結んでしまったことがわからないのか?悪魔は自分の力に引き込もうとして策略を巡らせた。お前は神と人間の敵に生贄を捧げること、無知の内に約束してしまった。だが厳粛に呪われた契約を放棄したから、もう復讐を恐れることはない」とのこと。こうしてイシドールは晴れてファンションと結婚する。十字架はファンションから子孫に受けつがれ、子孫は常に遺産の中で貴重なものとして扱った。やがて一族は裕福になり、イシドールの曾孫が先祖の奇跡的な脱出を記念して、冒頭の記念碑を建てた。


以上がその内容である。"vampyre"「吸血鬼」*19と2度ほど確かに出てくる。だが血を吸う描写は一切なく、別に幽霊や悪魔に変えてもなんら影響はない内容であった。そもそもイシドール自身を唆したのは、悪魔"fiend"と明言されている。なぜ「お前の女は吸血鬼だ」と脅す必要があったのだろうか。「愛のヒロイズム」が出た1827年は、ちょうどポリドリの「吸血鬼」の人気ぶりがまだ続いており、その吸血鬼人気にあやかったのではないかと思うが、完全に憶測なので真に受けないで欲しい(そのあたりの解説はこちらへ)。


【2022年11月21日追記】
萩原學様が「愛のヒロイズム」を「雄々しきは愛(クリックで移動)という題名で翻訳され、小説家になろうで公開されましたので、リンクをご紹介しておきます。また、当時の文章を抜き出したものをドロップボックスで公開しておりましたが、萩原様より文章に誤字・脱字・脱漏があったとご指摘を頂いたため、修正版に差し替えました。大変失礼しました。
【追記ここまで】


「リップ・ヴァン・ウィンクル」に関する疑惑

リップ・ヴァン・ウィンクル
若い頃のリップを演じる若きジョゼフ・ジェファーソンを描いた油彩画

いよいよ最後、今回のメインであるワシントン・アーヴィング作「リップ・ヴァン・ウィンクル」の捏造疑惑について説明していこう。ご存知の方も多いように、アーヴィングの「リップ・ヴァン・ウィンクル」は「アメリカ版浦島太郎」「西洋浦島」と呼ばれることから分かるように、我が国の「浦島太郎」と非常に似通っている。ある男が気付いたて山へ下りると20年もの月日がたっており、世の中がすっかり変わってしまっていたというお話だ。片岡政行は当時のアメリカの雑誌で日本の浦島太郎を紹介したときは「浦島:日本のリップ・ヴァン・ウィンクル」の意で紹介している。 "相対性理論による「時間の遅れ」を英語では「リップ・ヴァン・ウィンクル効果」、日本では「ウラシマ効果」と呼ぶ。このようにアメリカのみならず、日本においても非常に有名な作品だ(日本語wikipeida記事)。もし内容を知りたい方は、青空文庫ですぐに読むこともできるが、ニコニコ動画でゆっくり文庫氏がゆっくり劇で再現しているので、そちらをご覧頂くのもいいだろう。短いし、最後に簡単な解説もついているので非常にお勧めだ。



そんな作品をピーター・ヘイニングは、あろうことか作者不明と紹介したという。ともあれ、まずはヘイニングの解説を見てみよう。

ヘイニングによる「リップ・ヴァン・ウィンクル」の説明

ヘイニングの解説
リップ・ヴァン・ウィンクル(伝承)
リップ・ヴァン・ウィンクルの姿は、アメリカの想像力の誕生を司っている。そして、私たちの最初の成功した自国の伝説が、たとえ遊び心に満ちていようと、夢の戦いを記念するのはふさわしいことだ...
リップの世界は、恐怖と孤独の幽霊の出る世界であり、アメリカの小説は本質的に恐怖小説なのだから。
レスリー・エー・フィードラーは「アメリカ小説における愛と死(1960年)」の中で、西洋の世界で最も有名な伝説の一つを紹介している。
この伝説はゴシック様式で、アメリカでは最も有名なものである。
しかし、すべての権威者が、この物語がアメリカの創作であるという彼の意見に同意するわけではない。数人の権威者は、この物語は皇帝フリードリヒ・デア・ロートバルトとキフハウゼン山脈で彼を襲った奇妙な体験に関するドイツの迷信に基づいていると考え、他の者はヨーロッパの民話である「七人姉妹」に由来すると考え、時間の経過と他の迷信の導入によって変化しただけだと述べている。
それはともかく、「ロングスリーパー」の話はアメリカの伝統にしっかりと根付いており、いくつかのバージョンが存在するが、ジェフリー・クレヨン(1819)の次のものが我々の目的に最も適しているように思われる。
レスリー・エー・フィードラーが指摘するように、この物語は、アメリカ文学にファンタジーを導入したものであり、「逃亡者」という永続的で魅力的なテーマを全米の作家たちに与えた。


最初、作者不明と紹介していると知ったとき、流石に何かの間違いだろうと思っていたが、ヘイニングは本当に自身のアンソロジー"Gothic Tales of Terror 第2巻"で、この作品は作者はおらずアメリカの"A Legend"(伝承)の物語であると解説していた。この事実を知ったときもしばらくは到底信じられなかった。というのも、アーヴィングのリップ・ヴァン・ウィンクルは、1900年どこか1800年代の日本で、作者アーヴィング名前と共に既に紹介されているからだ。1889年(明治22年)の「少年園」5月号において、森鴎外「新世界の浦島」という題名で紹介している。


新世界の浦島
森鴎外「新世界の浦島」

新世界の浦島の画像:国立国会図書館デジタルコレクション(但し、要登録)


このように、「新世界の浦島」という題名でワシントン・イルヴィング著として紹介している。リップ・ヴァン・ウィンクルは作者名も含めて、1889年の日本において紹介されているのである。それをヘイニングは作者不明だとして紹介した。日本の例を考えると、いくらなんでも1972年のイギリスでリップ・ヴァン・ウィンクルが知られてなかったとは、到底思えない。ヘイニングはイギリス人だが、そもそもこのアンソロジーは同時期にアメリカでも発売されている。流石に作者不詳と紹介するにはいささか無茶が過ぎるというものだ。念の為、ヘイニングが収録した内容を、プロジェクト・グーテンベルクにあったワシントン・アーヴィング名義のものや、青空文庫にある日本語訳とも照らし合わせてみたが、ヘイニングが紹介したものは、間違いなくアーヴィングのものであった。ヘイニングに捏造の意思がないのだとすれば、こんな有名作でこんな調査しかできないヘイニングは、信用ならないの一言につきる。アーヴィングに辿り着かないなど、生きていたら一体どんな調査を行ったのか問い詰めたいぐらいだ。


ヘイニングはこの作品を、やれ皇帝フリードリヒなんちゃらの奇妙な体験に関するドイツの迷信に基づく説、ヨーロッパの民話である「七人姉妹」に由来して、時間の経過と共に他の迷信の導入によって変化しただけだとという説を権威者が述べている、などと説明しているが、実際はアーヴィングがオランダ人移民の伝説を基にして書き上げたものである。「リップ・ヴァン・ウィンクル」は1819年6月23日に刊行した「スケッチ・ブック」に収められたのが最初で、この時アーヴィングはジェフリー・クレヨンという筆名で発表した。そして作品のまえがきでは、「この作品は故ディートリヒ・ニッカーボッカー氏の遺稿から発見された物語」と紹介している。いかにも実在している人物がいるかのように紹介しているが、ディートリヒ・ニッカーボッカーは、アーヴィングが使用していたペンネームの一つである(参考wikipedia)。ISFDBの紹介でもはっきりと、「ヘイニングの紹介したものは、ワシントン・アーヴィングのバージョン」とはっきりと書かれてしまっている。数々の「新発見」「発掘」をしてきたヘイニングが、アーヴィングの存在に気が付かなかったのは何故なのだろうか。


こうして見ていくと、この件に関するヘイニングの捏造疑惑は、やはり驚きと不可解さしか残らない。よくぞこんな有名作で在りもしないことを主張できたことと思う。捏造の意思がないのであれば、かなりいい加減な調査だろう。1972年のイギリスでは、リップ・ヴァン・ウィンクルはあまり有名ではなかったのだろうか。そうでもなければ、この件で捏造(捏造の意思がないのであればいい加減な調査)なんてできやしないだろう。でもネットがなかった時代では、案外誰も気が付かなかったのかもしれない。過去記事でも紹介したようにフランケンシュタインに関する疑惑ブラム・ストーカーのドラキュラやガストン・ルルーの作品に関する捏造疑惑など、ヘイニングは過去に誰もが知っている人物の作品の捏造にまで手を染めている。そう考えると、リップ・ヴァン・ウィンクルも当時のイギリスではそこまで有名ではなかったというのもあり得る話だろう。ただヘイニングのアンソロジーはアメリカでも発売されているし、相対性理論におけるリップ・ヴァン・ウィンクル効果という言葉も作られていることを考えると、やはりこの件の捏造に関しては不可解さは依然として残る。


以上、今回新たに判明したピーター・ヘイニングの捏造疑惑である。冒頭でも述べたように、以前ヘイニングの疑惑を調べたとき、ダグラス・アンダーソンのブログにいきついた。そしてさすがに打ち止めだろうと思っていた。ところが「死者を起こすことなかれ」の作者問題の件で調べると、またしてもアンダーソンの別の記事が見つかりそれを見てみると、ヘイニングの捏造疑惑に関してまたもや言及があったからもううんざりしたほどだ。しかも有名作のリップ・ヴァン・ウィンクルは、作者不明だとして紹介しているというのだから驚くしかない。そして自分でも裏付けを取ってみると、ヘイニングの主張には証拠がなく、別の人の作品である証拠が簡単に見つかった。日本人の私でも簡単に調査できるようになるなど、ヘイニングも思いもしなかっただろう。今回の紹介した作品の特徴は、全てヘイニングの同じ一冊の本に収録されたものであることだろう。


ヘイニングのアンソロジーの目次ページ


上記は"Gothic Tales of Terror 第2巻"の目次ページで、赤字が今回紹介したヘイニングの捏造疑惑のある作品である。この内「墓の花嫁」"The Bride of the Grave"、つまり「死者を起こすことなかれ」に関しては、ヘイニングより間違えた人がいるので一概には言えない。それでも一冊の本において、少なくとも4作品も捏造疑惑がある結果となった。今まではせいぜい、1つか2つぐらいだったので、流石にこれはもうやりすぎだろう。もし捏造の意思がないのであれば、あまりにも調査がいい加減すぎる。こんだけ間違いだらけの解説をしていれば、彼の「新発見」なども到底信用できない。ヘイニングの怪しい主張は、実際には証拠がないので論ずるに値しないということで対応できる。だがそれでも嘘の主張を信じてしまう人は出てくるものだし、何よりヘイニングの主張が嘘であると完全に証明することもできない。ほぼすべての件で逃げ道がある。そして彼は既に亡くなっている。そこがヘイニングの実に嫌らしい所だろう。ロヴィアルタル氏はヘイニングの墓を蹴りたいおっしゃっていたが、私はその気持ちが非常によくわかる。私も機会がもしあるのであれば、ぜひ蹴りたいところだ。


今回はこれで以上となります。最後に宣伝を。2022年12月初旬に、新紀元社より紀田順一郎&荒俣宏監修「怪奇幻想の文学2 吸血鬼」が刊行される予定です。これは1969年、新人物往来社より刊行された「怪奇幻想の文学」のリニューアル版に当たるもので、2巻目は吸血鬼特集となります。そこには以前何かと話題にした作者不詳とされていた吸血鬼小説「謎の男」が、今度はヴァクスマン作ときちんと明かされて収録されることが発表されました(過去記事1 過去記事2)。
過去記事で散々説明したように、この作者判明の経緯には、ピーター・ヘイニングの嘘をダグラス・アンダーソンが解明する形で判明しています。今までは非常に手に入りづらい早川文庫のものでしか読めなかった作品ですので、「謎の男」に興味がある方は是非この機会に読んでみてはいかがでしょうか。既に予約も始まっていますので、よろしければ下記リンクよりお願い致します。また非常によいタイミングなので、ニコニコ動画でも「謎の男」の解説とゆっくり劇の紹介をしたいと思っています。出来上がった際には、ぜひそちらの方もご覧ください。



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*1:単純にヘイニングが間違えて紹介した可能性もあるが、それならそれで多くの作品で紹介間違いをしたことになる。そうなると彼の調査手法は非常にいい加減で、裏付けは一切取っていないということになり、また見直しもしていないということになる。一つ二つならまだ調査ミスで済むだろうが、あれだけ多く間違えているのであれば、まず彼による捏造であると疑ってかかるべきだろう。

*2:逃げ道があるといっても、肝心の証拠がない以上、実際はヘイニングの主張は根拠・証拠がないとしてつっぱねることができる。ただ彼の主張は嘘であると完全に断ずることもできないが。

*3:当初、ニコニコのブロマガは削除されるという話であったので移行させたが、移行後、ユーザー投票により要望の多い記事は残すことになった。有難いことに投票して頂いたおかげでニコニコのブロマガが残った次第。ブロマガはこちらからの編集は不可能なので、2017年当時に紹介したという確かな証拠となった。

*4:恐らく、カルフォルニア大学ロサンゼルス校のことだと思われる

*5:「ヴァンパイア・コレクション」で邦訳化されたのは一部だけであり、"Vampire Omnibus"に収録されたもの全ては邦訳化されていない。

*6:「島の花嫁」はジョン・ポリドリの小説「吸血鬼」の派生作品。現在更新がとまっている「最初の吸血鬼解説」シリーズで取り上げる予定。

*7:ジャン・マリニー「吸血鬼伝説」:池上俊一・監修/創元社(1994) p.59

*8:今から書くことは書くかどうか迷ったが、どうしても主張したいので脚注で残すことにする。トッドの言い分はどうもいけ好かない。言外に「自分は広い視点をもっている」と言わんばかりに見受けられる。いうなれば自分を少しでも賢く見せようとする厭らしさを、あの返信から感じとった。まあ邪推と言われればそれまでかもしれないが。だがヘイニングの数々の捏造疑惑を自分なりに調べてきた私からすれば、やはりアンダーソンと同意見で、ヘイニングの主張は最初から疑ってかかるべきだ。ヘイニングのみならず全てを疑うというのは、研究分野ではごく当たり前のこと。ただ、ヘイニングはその範疇に収まらないぐらい、疑惑を一つどころか沢山生んでいる。しかも全く存在しないものを捏造する、それどころか自分の主張の説得力を持たせるために、架空の人物まで捏造した例もある。アンダーソンも度々苦言を呈し、ついつい毒舌になっている。ヘイニングの数々の根拠のない主張のせいで、研究者が多大な労力を調べて調査する羽目になっている。例えば「バネ足ジャック」に関するヘイニングの主張のことで調査を行ったマイク・ダッシュ。結局何一つヘイニングの主張を裏付けるものが見つけ出せなかった。それどころかまだ生きていたころのヘイニングに直接電話して「証拠みせてくれ」と連絡したら、「人に貸し出してその後紛失しちゃった」などと、舐めてんのかと言いたくなる返事をされる始末。ヘイニングの死後の2013年のインタビューで「人生の数週間を無駄にした」と、ヘイニングに対して恨み節をぼやいている。以前紹介した「フランケンシュタインの古塔」にしたって、ヘイニングの主張の裏付けを取るべく、多くの研究者が英語、フランス語、そしてドイツ語原著を調べるという無駄な作業をさせられている。このようにヘイニングの主張は「ノイズ」にしかならず、真面目に研究している人からすればたまったものではない。だからこそ私はトッドの「優等生的な」言い分が非常に気に入らない。「全て疑うなんてのは分かってんだよ!ヘイニングはその斜め上のこといっぱいやってるから疑えって、アンダーソンさんは言ってるんだよ!何いいこちゃんぶってんだ!?」という意見になる。

*9:なぜか本国ドイツよりも、英語の記事のほうが詳しく書かれている。

*10:「Verfasser」「Verfasserin 」の違いがあるが、翻訳ではどちらも「著者」の意だった。違いが判る方はご教授願います。

*11:この件でヘイニングが間違えたどうかまでは裏付けを取っていない。ミルビラー教授名義の作品もあるかもしれない。

*12:余談だが、当時吸血鬼騒動が起きたとき、ヴォルテールは「吸血鬼とは弱者から経済的に搾り取る聖職者のことだ(意訳)」と言っている。このあたりのこともいずれ解説しよう。早く知りたい方は、私にニコニコ動画を参照して欲しい。

*13:第一巻はアーカイブ閲覧可能

*14:インターネットアーカイブの概要欄では3巻となっているが、実物コピーには2巻となっている

*15:最後の"fiction"だが、どちらのアーカイブをみても"liction"にしか見えない。解像度が悪いせいか、誤字のどちらかだろう。どう考えても"Fiction"が正しいと思われる。

*16:この「事実は小説より奇なり」というのも、現在日本で慣用句として使用している意味と、実際の詩で使われたときとではニュアンスが違うという。

*17:DeepL翻訳では「おふさげ」となったが、「失態」「バカ」の意味もあるので、こちらのニュアンスかもしれない。そもそもgoofはスラングの意味が多いようで、英語に疎い私ではどういったニュアンスなのか測りかねる。詳しいかたはぜひご教授ください。

*18:詳しい方はぜひご教授願います。

*19:現在、通常「吸血鬼」のスペルはvampirだが、18世紀当時はy表記のvampyreも交じっていた。現在でもあえて使用することがあり、vampireよりもvampyeの方が、特別だったり強力な吸血鬼の印象を与えるという(マシュー・バンソン「吸血鬼の事典」より)。最近の例で言えば、フランスのゲームスタジオDontnod Entertainmentが開発したゲーム"Vmpyr"が挙げられるだろう。Steam、PS4、ニンテンドーSwichなどで発売されている。