吸血鬼の歴史に詳しくなるブログ

吸血鬼の形成の歴史を民間伝承と海外文学の観点から詳しく解説、日本の解説書では紹介されたことがない貴重な情報も紹介します。ニコニコ動画「ゆっくりと学ぶ吸血鬼」もぜひご覧ください。

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【書評】「新編 怪奇幻想の文学2 吸血鬼」の感想

怪奇幻想の文学2 吸血鬼

今回はレビューしようとしていてずっと機会を逃していた、2022年12月発売の新紀元社より刊行された「新編 怪奇幻想の文学2 吸血鬼」の感想を簡単に述べていこうと思います。2022年は5月に「吸血鬼ラスヴァン 英米古典吸血鬼小説傑作集」、8月には「吸血鬼文学名作選」が刊行されており、2022年は吸血鬼イヤーともいうべき程、古典吸血鬼小説のアンソロジーが刊行されました。ということで2022年を締めくくる本アンソロジーをレビューしていきたいと思います。レビューの性質上、大なり小なりネタバレがあるので、その点留意してご覧ください。



K・A・フォン・ヴァクスマン「謎の男」

アンソロジー最初の収録作品は、カール・アドルフ・フォン・ヴァクスマンの「謎の男」で、個人的に一番楽しみにしていた作品。当ブログをずっとご覧になってきた方々ご存じのように、この作品は長らく作者不詳として紹介されてきた。ピーター・へイニングの不正を見破ったアメリカのダグラス・アンダーソン氏により、ようやく本当の作者がヴァクスマンであったことは、過去記事でも紹介してきた通り。もっともドイツ本国では当初から作者を把握していた可能性はあるが、少なくとも英語圏ではずっとヴァクスマンだとは分かったのは2010年と近年になってからのこと。


そして「謎の男」は、「ブラム・ストーカーの「ドラキュラ」に影響を与えたであろう」と、ドラキュラの初期研究者たちが唱えている作品でもある。ドラキュラへと至る吸血鬼形成の歴史に興味がある私からすれば、当然興味も人一倍であることはお判りになることだろう。 ただ日本語訳の入手がこれまでは非常に難しく、人に勧め辛い状況だった。1980年に早川書房から刊行されたマイケル・パリー編纂の「ドラキュラのライヴァルたち」に収録されたものがこれまでは唯一だったのだが、中古市場にあまり流れていない。私は運よくヤフオクで安く購入できたが。今でも中古価格で最低でも5000円ほどで、中には10万円以上の値が付いているものもある。だが今回こうして入手性が一気に解消されたので、非常に喜ばしい限り。謎の男の作者判明の経緯は、過去記事をご覧頂きたい。

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「ドラキュラのライヴァルたち」で既に読んだことがある作品だが、今回改めて読んでみた感想だが、やっぱりヒロインのフランツィスカの性格が気に入らん!フランツィスカの精神構造は例えるならば、「真面目な男の子じゃなく、不良をかっこいいと思う思春期特有の中学生の女の子」みたいな構造によく似ている。最終的にはフランツの誠実さに絆されるけど、それまでのフランツに対する言動はかなり失礼で、フランツよくこんな女に惚れ続けたなと思った。今の基準に当てはめてはいけないとは理解している、それでも吸血鬼に襲われる若い女性にも係わらず魅力に劣るなと改めて思った。


次に気になったのが序盤、フランツィスカ一行を案内するクンパーン爺さんの言葉遣い。「ドラキュラのライヴァルたち」の小倉訳では、ドラゴンクエスト8のヤンガスのような口調(幇間が使う廓言葉?)だった。例えば「犬なんかじゃねえでがすよ!」など。普通に考えれば廓言葉なんて使うべきではないだろうが、妙にマッチしてて私は好きだった。新訳では普通の老人口調に改められていたが当然だろう。それよりもここで気になったのが、今回の新訳ではクンパーン爺さんではなく、ただの老爺となっていたことだ。調べてみたところ、小倉訳の元となった英訳版では"old Kumpan"としており、ドイツ語訳を見ると単に"Kumpan"とだけあった。


コトバンクを見ると、ドイツ語でKumpanは、相棒とか野郎などといった意味がある。そして英訳では最初に"old"と付けたところをみると、どうもここはクンパーンという固有名詞ではなく、単に付き人という意味で捉えたほうがよさそうだ。英語に"Kumpan"なんて単語はないし最初の"K"を大文字にしているから、ドイツ語が分からなければ小倉氏が固有名詞と勘違いしてしまうのも無理はない。ましてや翻訳した当時は、英語圏や日本ではドイツ語のタイトルさえ不明で原典を当たることさえできなかった訳だから、余計に仕方がない。私は人物名でなくただの老爺が正しいと判断してこのように解説したが、語学はからっきしなので、違うところがあればぜひご教示願います。なおドイツ語版は、2012年オリバー・コトウスキ編集の"Lasst die Toten ruhen (German Edition)"を参照した。死者よ目覚めるなかれの解説記事で紹介したものだ。


吸血鬼は単純な力に優れるというのは吸血鬼作品によくある設定だが、この作品でも吸血鬼の純粋なパワーがクローズアップされる。というか吸血鬼アッツォはそれが原因で、なんとも間抜けな勘違いをしてしまう。ヴォイスワフがアッツォの腕を義手のバネによる強い力でつかんだ時、アッツォは自分と同族と勘違いしてしまう。ヴォイスワフは過去にも同様に吸血鬼を勘違いさせたことがある。アッツォはそれまでなんとも嫌味でどこか得体のしれないやつであったのが、このシーンは新訳を見ても少々間抜けでなんとも面白く思う。
しかし、ヴォイスワフは黄金の義手の握力は、アッツォに自分と同族の吸血鬼であると勘違いさせるほどであるが、ここは今見ても現実感がないファンタジーな設定だろう。だがこれは”あり”だとも思っている。有名なダークファンタジー漫画「ベルセルク」で主人公のガッツは左腕が磁石入りの義手だが、もはや自由自在に動かしているよなとファン界隈で語られることもあるぐらいだ。それにガッツのモデルとなった鉄腕ゲッツの義手は剣を握れたそうだから、これぐらいのファンタジーな描写は私は割り切れた。私は許容できたが、現実味がなくて許容できない人も中には出てくるかもしれない。


お次は、フランツィスカが吸血鬼に血を吸われたシーン。アッツォが首に吸い付く夢を見て朝起きると首元に小さな傷跡があった。英訳も英訳から重訳した小倉訳もその傷跡の大きさは1インチとあった。だが今回は長さ1ツォル、幅1リーニエほどの筋と表現されていた。1インチも1ツォルも訳2.5㎝なので、正しく英訳されていることになる。だが英訳版には幅1リーニエに関する言及は一切なかった。後述することも含めてみると、英訳版は少々の脱漏があることが分かった。この程度なら私は気にならないが、正確性を求める人からすれば不完全な英訳版は、許しがたいと判断する人も中には出てくるかもしれない。


吸血鬼アッツォは血を吸うために首元に食らいついたわけだが、これは「吸血鬼史上、初めて牙が出てきたシーン」といえる歴史的な瞬間であり、吸血鬼形成の歴史を見るうえでは非常に重要なシーンだと思っている。 吸血鬼は首元から歯を立てて血を吸うというのは、1819年のジョン・ポリドリの「吸血鬼」から始まった設定だが、ポリドリの「吸血鬼」では首元に食らいついて絶命させるという、非常に荒々しい方法だ。牙に関する描写も一切ない。それに対して謎の男では、アッツォに牙が生えているという明確な描写はない。だがフランツィスカの首元に食いついた後にできた小さい傷、これは普通の歯で食いついた傷ではないだろう。普通の歯で食いついたのであれば、「歯形」と明確に描写されるはずだ。だがフランツィスカは首元に食いつかれる夢を見たとはいえ、最初は何の傷であるのか、全く把握していなかった。よってこの傷跡は牙によるものと判断してよいのではないかというのが、私の持論だ。


吸血鬼に牙の設定を最初に持ち込んだ小説は、これまでは1845年に連載開始された「吸血鬼ヴァーニー」だとされてきた。*1。ヴァーニーでは、獣のような牙で首元に食らいつくシーンが、1845年連載開始の第一回目で明確に描写されている。私も「謎の男」が作者不詳と思っていたときは、ヴァーニー以前で牙が出てくる描写の吸血鬼小説を見つけ出すことはできなかった。だが「謎の男」はこれまで1860年作とされていたのが、今では1844年作と判明している。つまりヴァーニー連載の1年前に、牙と思わしきシーンが出ていたのである。「謎の男」で描写された「首元にできた傷」を牙によるものと解釈すれば「謎の男」こそ、「吸血鬼に牙が生えた最初の創作」と言えるとになるのだ。もちろん、明確に牙とは描写されていないので、中には違う意見の人もいることだろう。明確に牙が描写されたという意味では、やはり吸血鬼ヴァーニーが最初なのは間違いない。ここら辺はぜひとも研究者や評論家にもっと着目してもらい、議論したいところだ。


次の話題に移ろう。英訳版には脱漏がもう一つあるといったが、それはヴォイスワフの義手の件だ。ヴォイスワフは黄金の義手をつけており、もう片方の腕には黄金の義手に見合うよう、金箔張りの小手をはめていると説明がある。実は英訳版やそれをもとにした小倉訳では黄金の義手しか描写されておらず、もう片方の金箔張りの小手については言及されていなかった。実は今回の新訳が出る前に、印象的なシーンだけドイツ語原典をスマホの翻訳アプリにかけながら見ていたのだが、その時に英訳にはない金箔張りの小手の存在を知った。今回はこうして答え合わせができてよかった。この小手と先ほど述べた首元の傷の件も併せてみると、英訳版に脱漏があるのは間違いなく、今回の新訳できちんとした翻訳されたことは喜ばしい限りだ。


終盤でフランツィスカの謎の病を対処するとき、ヴォイスワフがフランツィスカに説明するシーンで、何をするのか説明してほしいというフランツィスカに対して、ヴォイスワフが今しゃべることはできないという問答を繰り返す。ここは今見ても、ヴォイスワフは一度きちんと説明すべきだよなーと思ってしまう。解説した後、アッツォが吸血鬼だとしればフランツィスカは恐れてしまって何もできなくなるかもしれないからあえて黙ったという説明があるが、それにしたってやっぱり最初に説明してしかるべきだろうと、思わずにはいられなかった。


吸血鬼を退治したあと、ヴォイスワフが過去にであった妙な男が、実は吸血鬼であり、その時色々現地の人に聞いたおかげで、アッツォに対抗することができたと語る。そしてフランツィスカはフランツに絆されて物語は終わる。ここの展開運びが、どうも盛り上がりに欠ける印象だ。ヴォイスワフは吸血鬼のことをアッツォを退治してから話したかったから、展開の流れとしてはわかる。でもここの真相告白のシーンはどうも盛り上がりにかけて、最後のエピローグも盛り上がりにかけた印象だ。フランツィスカもフランツを貶しまくったのに、最後はお互いに結婚して幸せになりましといわれても、素直に祝福できなかった。せめてフランツィスカがフランツに絆されるシーンが本編にあればよかったのだが、フランツはアッツォに翻弄されるシーンしかなく、おいしいところは全部ヴォイスワフが持って行ってしまっている。もしくはアッツォを倒したあとで、フランツィスカがフランツに惚れる様子を、もっと描写するか。まあそうすると蛇足になってしまうが。それに古典小説で現代小説みたいな展開を求めるのも、筋違いと思われる方もいらっしゃるだろう。


あと述べておくべきことは、冒頭でも述べたように、ドラキュラの初期研究者たちは、ブラム・ストーカーが「吸血鬼ドラキュラ」を作る際、この小説を参考にしたのではないか唱えている*2、マシュー・バンソンの吸血鬼の事典でも「ドラキュラ」は「謎の男」ほか、吸血鬼小説を参考にしたものと紹介している。あとはピーター・へイニングの捏造疑惑の記事でもさんざん解説したように、イギリスの怪奇小説の巨匠M.R.ジェイムズは「ドラキュラという作品は、チェンバーズ・リポジトリの第四巻に掲載された物語がもとになっているに違いないと考えている」と具体的な作品名はあげてないが、それはどう考えても「謎の男」であろうことは、以前解説した通り。


ハヤカワ文庫から刊行された「ドラキュラのライヴァルたち」では、マイケル・パリーは、「謎の男」と「ドラキュラ」の似通ったシーンを紹介している。「謎の男」では、一行が領地に向かう際、森でオオカミに囲まれてしまうシーンがあるのだが、「ドラキュラ」でも冒頭でジョナサン・ハーカーが森でオオカミに囲まれてしまうシーンが存在する。確かにこれは参考にしたのではないかという意見が出てくるのもわかる。だがストーカーが「ドラキュラ」制作の際に言及した作品は、あくまでシェリダン・レ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」のみであるので、どこまで行っても推測にしか過ぎないことは、留意されてほしい。この作品に限らないことであるが、ドラキュラ以前の吸血鬼小説は、今の吸血鬼とはどこが違うのか、逆に現代の吸血鬼、ドラキュラとの共通点はあるのかという点を念頭に置いて読むと、また違った見方ができるので、吸血鬼好きの方はそういう観点で読むとまた違った読み方ができるかと思う。


更に余談だが、今回コトウスキ編"Lasst die Toten ruhen (German Edition)"(2012)に収録された「謎の男」を見てみると、作者は明記しておらず、あとがきを見る限り、1860年に作られたといっていることから、コトウスキはサマーズ説しか知らない様子であった。冒頭でドイツの出版社は以前からヴァクスマンを知っていた可能性があるといったが、2012年時点で少なくともこのコトウスキは知らなかった様子であるから、ドイツ本国でも2010年にダグラス・アンダーソンが紹介するまで、ヴァクスマンを知らなかった可能性が出てきた。ISFDBのドイツ語版みたいなものがあれば調査のしようもまだあるのだが。このコトウスキのアンソロジーは私は2017年ごろから持っていたので、いつもながらの調査の詰めの甘さがでたと反省する次第だ。


最後に。巻末には編集者の牧原勝志氏による解説があり、ハヤカワ文庫から刊行された「ドラキュラのライヴァルたち」にも触れられているのだが、そこの解説では「なぜか作者不詳とされた」という説明がなされている。だがなぜ作者不詳であったのかは、当ブログの過去記事で解説した通り。またこの解説に対して牧原氏に連絡を取ったところ、逆に「幻想と怪奇」で解説を勧められたことは、以前の記事でも述べた通り。「幻想と怪奇 13号」に私の解説記事が掲載されているので、よろしければぜひ手に取っていただきたい。


A・K・トルストイ「吸血鬼」(ウプイリ)

トルストイの吸血鬼作品は2つほど知られており、もう片方の「吸血鬼(ヴルダラク)の家族」は近年も新訳が発表されたりと、割と手に取りやすく、私も読んだことがあった。だがこの「吸血鬼」の方は、これまで栗原成郎訳 国書刊行会『ロシア神秘小説集』(1984)にしか収録されておらず、中古すら見たことがない。かなり規模の大きい図書館の書庫にようやく眠っているような代物だったので、私もいままで読んでみたいとは思っていても、そうまでして読むのは億劫だなと思っていた作品だ。「謎の男」と同じく、この作品も今回の収録を知り喜ばしく思った作品だ。


ヴルダラクはロシア圏に吸血鬼の一種だが、ウプイリはスラブ圏に伝わる吸血鬼の一種。ほかにも似た語感のものとしてトルコ語でウピルなどもあり、このウピルは英語vampireの語源になったという説がある。この辺りもいずれ当ブログで解説したいが、取り急ぎ知りたい方は、検索すればわかりやすい記事が出てくるのでそれをご覧頂きたい。


冒頭は当時の吸血鬼観がうかがえて非常に興味深かった。ルネフスキイが「ウプイリとは?」と質問をすると男は「なぜヴァンピールと呼ばれているのかわからない。ロシア語で正確なのは『ウプイリ』だ。ヨーロッパやアジアにも存在している。語源はまぎれもなくスラブ語にあるがm、なんでもラテン語で言いたがるハンガリーの修道士どもに置き換えられた『ヴァンピール』では筋が通らない」とある。ヴルダラクの家族でもそうであったが、この作品は吸血鬼といっても今の洗練されたドラキュラタイプの吸血鬼でなく、民間伝承に伝わる吸血鬼をテーマにしたものであることが伝わってくる。


その内容であるが、まず登場人物の名前が覚え辛く、そのせいで内容が頭に残りにくい。ドストエフスキーの作品に比べれば覚えやすいだろうが、日本人には馴染のない名前ばかりでてくるので、私は四苦八苦しながら読むことになった。


序盤は吸血鬼の解説もあって引き込まれたのだが、途中過去話が長いこと、そして幻想的な展開にはどうもついていけなかった。同じトルストイの吸血鬼作品「ヴルダラクの家族」だが、こちらは単純なホラーとして分かりやすく楽しめたが、今回の「ウプイリ」は幻想文学であったため私には合わなかった。だがTwitterを見てみると、面白かったという意見もいくつか見かけた。過去何度か述べたように、私の興味は「ドラキュラに至るまでの吸血鬼の形成の歴史」なので、幻想文学にはあまり馴染みがないため、このような評価となった。


ブラム・ストーカー「ドラキュラの客」

ブラム・ストーカーの死後、未亡人となった妻フローレンスによって「ドラキュラの初期草稿」と銘打たれて発表された作品。内容としては序盤のジョナサン・ハーカーがドラキュラ城へ向かうまでのシーンを描いた短編。日本語訳はこれを除いて2度ほどされており、そのうち水声社から発売された「ドラキュラ【完訳詳注版】」に収録されたもは読んだことがあった。今回改めて読んでみると、これはこれで雰囲気は出ている。本編は各キャラの日記や記録の内容を読み上げていくというスタイルであるが、この短編ではまだ日記スタイルにはなっていない。本編にはないヴァルプルギスの夜が強調されているのも特徴だ。


ほかに目を引いたのは、ドイツ語の碑文を見るシーン。水声社版では碑文に「スティリア"STYRIA"」というオーストリアの一州の地名が記載されていたのだが、今回の新訳では「シュタイアーマルク州"Steiermark"」とされていた。どういうことか調べてみると、スティリアは英語での呼び方であって、ドイツ語ではシュタイアーマルクと呼ぶようであった(参考wikipedia)。確かにストーカーの本文は"SRTYRIA"とあるので、スティリアと邦訳するのは間違いでない。だが本文には「ドイツ語で書かれた碑文」ともあるので、今回の翻訳は実態にあった翻訳であることがうかがえる。確かにドイツ語あるのであれば、碑文はドイツ語にしなければおかしくなる。ストーカーがドラキュラを執筆するきっかけとなったシェリダン・レ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」は冒頭でスティリアと表記している。英語圏の人たちは、スティリアのドイツ語の表記を単に知らなかったという可能性が考えられる。ちょっとしたことであるが、こうして色々気付けるというのがなんとも面白い。ちなみに本編ではスティリアの地名は出てこない。初期草稿ではストーカーはカーミラと同じ舞台設定にしたかったことがうかがえるが、何らかの理由で取りやめたようだ。


この短編だが、本編のほうが「ドラキュラの不気味さ」が表現されていて完成度が高いと思ったが、これはこれで雰囲気が出ていて楽しめる。ちなみにだが、スウェーデン語版ドラキュラを調べていて知ったのだがこの「ドラキュラの客」、今でこそストーカーが書いた未発表作品という認識がされているが、フローレンス未亡人が発表当時は、本当にストーカーが執筆したものかどうかで、ドラキュラの初期研究者たちを大いに悩ませたものらしい。理由は本編は各個人の日記などの記録を読み上げていく方式なのにそれがないことなどが、疑われた理由だ。結局、ストーカーが実際に使用していたタイプライターに残されていた原稿に「ヴァルプルギスの夜」のキーワードが残っていたことで、本物であると判断されたのだとか。この辺りの事情はもう少し調査をしたのち、いずれ記事にする予定だ。


イヴリル・ウォレル「夜の運河」

この作品で目を引いたのはやはり、ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」では死に設定だった「吸血鬼は流水を渡れない」を前面に出した作品だ。「吸血鬼ドラキュラ」ではヴァン・ヘルシング教授が吸血鬼の特徴を述べていくのだが、そこに「吸血鬼は流水を渡れない」という説明がある*3。だがドラキュラはデメテル号に乗り込んで、船員を殺しながらルーマニアからイギリスへと渡航しているので、じゃあ流水を渡れないとはいったいどういうことなんだろうかというのは、よく見かける疑問だ。この「吸血鬼は流水が渡れない(弱点)」というのは、吸血鬼の普遍的な弱点として知られており、じゃあシャワーを浴びたら死ぬのではと考える人も見かけたことがある。


この弱点は、もともとは民間伝承に伝わるもので、よく狂犬病患者は水を飲むことすら激痛になるので、水を怖がるからそこから生まれたものだろうなんて俗説が流れている。実際は狂犬病と吸血鬼を結びつける伝承はなく、そもそも狂犬病になると水すら飲めなくなるだから、むしろ血を飲む化け物を想起させることはない。この弱点は黒死病がまん延した時代、大量の死体を川に流して処理したり、またはため池などに沈めた遺体が腐敗し、そのメタンガスにより川や池に大量の死体が浮かんだことが原因。メタンガスにより体内の血液が押し出され、しかも膨れ上がっているから、「この死体は大量の血を飲んだに違いない!」と勘違いされたことが、本当の原因だ。この辺りはポール・バーバー著「ヴァンパイアと屍体」に詳しく書かれている。話が脱線してしまったが、「ドラキュラ」では活かされることのなかった「流水を渡れない」に着目した吸血鬼作品としては、最初の作品ともいうべきもので、うまく設定を使っており「吸血鬼の流水弱点」に対する一つの答えを出したといえる作品であった。


ほかに気になったところは、女吸血鬼の命令に従うことになるのだが、この辺りはポリドリの「吸血鬼」のルスヴン卿の制約に倣ったのかなと思った。


この作品だが、主人公が日記に過去に起きた出来事を書いていくという形式、つまり主人公が生きていると分かるせいで恐怖感がいまいち薄れたしまった印象だ。なすすべもなく吸血鬼の餌食になるという締め方のほうが良かったのではないかと思う。そして最後はまさかの爆破オチ。いや正確には実行手前だが。ダイナマイトってあの時代なら個人で購入できるものだったのかと気になって仕方がなかった。


最後に書籍にはない情報を紹介しよう。「夜の運河」はウィアード・テイルズに連載された作品だ。ウィアード・テイルズといえば、あのH・P・ラヴクラフトがクトゥルフ神話を連載していたことで有名な雑誌だ。そのウィアード・テイルズつながりのおかげで、ラヴクラフトはこの「夜の運河」をかなり気に入っていたという。詳細は下記サイトをご覧ください。


deepcuts.blog


カール・ジャゴビ「黒の啓示」

「吸血鬼は鏡に映らない」という設定が創作で見られるようになったのは、1897年のブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」からである。それ以前の吸血鬼小説にはそんな設定はない。では民間伝承ではどうかというと、ポール・バーバーは「鏡に映らないという伝承は2つしかみたことがない」、ジャン・マリニーも「吸血鬼が鏡に映らないという伝承はドイツの一部地域にあるだけ」と述べていることから、吸血鬼の特徴として非常にマイナーであることがうかがえる。だが今では「吸血鬼は鏡に映らない」という設定は割とよく知られている特徴だ。もとは非常にマイナーな設定だったのが、ブラム・ストーカーが「ドラキュラ」で採用し、ドラキュラが広く知れ渡ったために、いまではメジャーな設定となったわけだ。今回の「黒の啓示」では、吸血鬼の写真を撮るも映らないという特徴がある。これは「吸血鬼は鏡に映らない」という設定をさらに発展させたものであるといえるだろう。


内容は、主人公がふらりと入った骨董品店で、一冊の本に魅入られる。店主は「これは売ることができない」というのだが、何とか交渉して借り受ける。そうすると不思議な女と出会い、なんやかんやあって主人公は寝込んでしまう。医者には「神経衰弱、あと首に小さな切り傷がある」といわれる。そして本を最後まで読むと「女とその弟は吸血鬼だ」という文言をみて、自分は吸血鬼に餌食になっていたことに気が付く……といった内容だ。 どこかサスペンスっぽく、最後の展開は王道なホラーのグッドエンドといった感じだ。古書から始まる怪異というのも、実にホラーの王道的な展開を思わせる作品だった。


シーベリー・クイン「クレア・ド・ルナ 月影」

これはオカルト探偵「ジュール・ド・グランダン」シリーズのうちの一つ。このことからわかるように、この作品は探偵もので、美しい女優の正体を探るというもの。従来の吸血鬼像からは少しかけなはれており、探偵ものなのでこのアンソロジーの中では少々異色だといえるだろう。正直、こういった作品のほうが私は好みなので、これは楽しんで読むことができた。


フリッツ・ライバー「飢えた目の女」

カール・ジャゴビ「黒の啓示」の女吸血鬼は写真に写らなかったが、こちらの作品の女吸血鬼は写真に写る。写るどころか、モデルとして活躍しそれはアメリカ中の男を虜にするほど。このように吸血鬼の設定なぞなんでもありということがこの2作品から伺うことができて、なんとも面白い。設定は写真家の主人公のスタジオに、モデルをしたいという女が現れる。しかし条件は撮影は必ず2人きりというもの。


この作品の女吸血鬼は実は血を吸わない。だが全てを奪いつくす。これは文字通りだ。金や命だけでなく、相手の人生すべてを。素敵な思い出から殴られた記憶、肉親の死の悲しみなどなど。女がモデルをやっていたのは、女に近寄りたいという男を釣るための「罠」だったのだ! 血を吸わないので「こんなの吸血鬼じゃない!」と思う人もいておかしくはないだろう。だが「吸血鬼」(vampire)という言葉には、「高利貸しなど、相手の利益を搾り取るもの」の意も持っている。例えば18世紀に「吸血鬼騒動」が起きたとき、啓蒙思想家のヴォルテールは、「吸血鬼とは民から搾り取っている高利貸しや教会のことだ」というような批判をしている。「吸血鬼ラスヴァン」に収録されたジョージ・シルヴェスター・ヴィエレックの「魔王の館」では血を吸わないが、「相手の能力の良いところだけを吸い取る」吸血鬼が登場した。今回の吸血鬼も同系統と言え、今回のほうがよりスケールアップした感じだろう。「吸血鬼」を期待してみると期待外れになる人もでるだろう。


感想としては、序盤から中盤にかけての謎めいていてよかった。最後のオチが、女の正体を語るところで終わりというのが中途半端な印象だ。せっかくかなりヤバイ存在とわかったのだから、そこからもうひと捻り恐怖体験か、主人公が餌食になるという恐ろしい終わり方をしてもよかったのではと思わずにはいられなかった。


リチャード・マシスン「血の末裔」

主人公の男の子は将来の夢として「吸血鬼になりたい」と書くほど吸血鬼にあこがれており、そのほか奇怪な行動をすることから医者には知的障害があると診断される。映画館でベラ・ルゴシ主演「魔人ドラキュラ」を見て、そのあとはブラム・ストーカーの「ドラキュラ」を借りようとする。そうして男の子は吸血鬼にあこがれ奇怪な行動を続ける。ある時、動物園で吸血蝙蝠を見つけると「伯爵」と名付けた。今は蝙蝠だが、本当は人の姿のあるはずであると。そしてとうとう、自分の喉を刺し、自分の血を蝙蝠に吸わせる。意識が遠のく中、ルビーのように赤く輝く目をした背の高い男が現れてこう呼びかける。「我が息子よ」と。


と、盛大にネタバレしてしまった。少年は果たして吸血鬼になれたのか、そして最後に現れた男も果たして本当にドラキュラ伯爵だったのか、それとも少年の妄想であったのか、それは誰にも分らない。「憧れを追い続けて、ついには目的を果たした少年の物語」ともとれるし、「妄想が激しい少年のみじめな妄想の物語」とも取れる。そうしたことが狙いだったのだろうか。でも正直、私はあまり面白いとは思わなかった。こういうすっきりしない終わり方の物語はどうも好かない。それに主人公の男の子が被害妄想の激しいやつと受け取ってしまった弊害もあるのだろう。だがこの物語、妖怪漫画の大御所である水木しげる「血太郎奇談」というタイトルで、舞台も日本に変更して漫画にしている。舞台は日本になっているが、当時の日本にも映画「魔人ドラキュラ」は放映されていたので、なんの問題もなく読むことができる。「血太郎奇談」は現在では2015年に角川文庫から発売された「畏悦録 水木しげるの世界」に収録されている。kindle版もあるので、興味がある方は読んでみてはいかがでしょうか。



リチャード・マシスン「白い絹のドレス」

自分の部屋に閉じ込められた女の子の独白による物語。最初見たとき状況が分からな過ぎた。どうも少女の母親は何らかの理由で亡くなったようだが、説明がなさ過ぎて状況把握が初見ではできなかった。なんだかわけがわからな過ぎたたが、最後の一言はよかった。まあなぜ少女が化け物になったのかすらもわからないが。「血の末裔」以上に私には合わなかった作品だ。


ロバート・エイクマン「不十分な答え」

英国の若い男性帰社が。スロベニアの古城に住む女彫刻家を訪ねるも、奇妙な体験をするというストーリー。この作品の感想だが……とても語れる気がしない!というのも、何が起きているのかわからないまま話が進み、訳が分からないまま終わるからだ。主人公すら把握できんのに、理解できるかい!吸血鬼に関係がありそうな言葉は出てくるものの、吸血鬼というワードは出てこない。本当にわけがわからないまま終わってしまった。この物語の概要が分かった方は、ぜひ教えてほしいぐらい。


以上が各作品の感想となる。こうしてみると、私の興味は吸血鬼という存在の形成の歴史にあり、怪奇幻想文学というジャンルは特段このんで読むことはない。古典の幻想文学、ゴシック・ホラーというジャンルを語るにはそのあたりの知識が不足しており、どうしても偏ったレビューになってしまっているが、どうかそのあたりはご容赦願いたい。


単純に吸血鬼という存在が好きな方は、一度はぜひ手に取っていただきたいアンソロジー集です。これまでは絶版で翻訳の入手ができなかったものも多いので、ぜひこの機に読んでみてはいかがでしょうか。

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*1:Skal, David J. (1996). V is for Vampire. p.99. New York: Plume.など。吸血鬼ヴァーニーのwikipedia記事から孫引き

*2:In his 2016 biography of Bram Stoker, Skal 英語wikipedia"Powers of Darkness"より孫引き

*3:ちなみに平井呈一は「スイスイと渡れる」と致命的な誤訳をしてしまっている。