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前回は森口大地編訳「ドイツ・ヴァンパイア怪縁奇譚集」幻戯書房(2024年)のうち、エルンスト・ラウパッハの「死者を起こすなかれ」をレビューした。今回は残りの作品について簡単なレビューをしていきたい。前回投稿後、断続的な出張・残業・身内の不幸などが続いたため前回より開いてしまい、非常に申し訳ありません。
- ゴットフリート・P・ラウシュニク「死人花嫁(1820)」(原題”Die Totenbraut")
- カール・シュピンドラ―「ヴァンパイアの花嫁(1826)」(原題"Der Vampir und seine braut")
- J・E・H「ヴァンパイア アルスキルトの伝説(1828~29)」(原題"Der Vampir.saga")
- イシドーア「狂奏曲 -ヴァンパイア」(原題"Der Vampyr Ein Capriccio")
- ヒルシュとヴィ―ザー「ヴァンパイアとの駆け落ち(1835)」(原題"Der Vampyr. Novelle")
- F・S・クリスマー「ヴァンパイア ワラキア怪奇譚(1835)」(原題"Der Vampyr: Eine Erzählung")
ゴットフリート・P・ラウシュニク「死人花嫁(1820)」(原題”Die Totenbraut")
この物語は前回紹介した「死者を起こすなかれ」の次に楽しみにしていた物語だ。編訳者の森口論文「ラウシュニクの『死人花嫁』に見られるヴァンパイア像 --<宿命の女>と<宿命の男>の二重構造--」:京都大学大学院独文研究室研究報告刊行会を2019年に発表しており、私はそれを見て非常に興味を持った。森口はドイツの出版社 Atlantis Verlag Guido Latzが2012年に刊行した吸血鬼アンソロジー"Lasst die Toten ruhen (German Edition) "よりこの物語を紹介しており、そのアンソロジーの編集者であるオリバー・コトウスキは「死人花嫁」を、ヴァンパイア・ハンターが登場した最初の吸血鬼小説とみなしてよいと、森口は紹介していたからだ。
人は何においても「最初の」というものには興味がひかれるもの。「最初の吸血鬼ハンター」という謡い文句に惹かれるのも無理はないというものだろう。
ツェレンシュタイン伯爵には3人の息子と一人の娘がいたが、長男と花嫁、次男、娘が、直前まで健康だったのにも関わらず相次いで急に命を落とすという不幸に見舞われた。そのため三男のレオドガーは、聖堂参事会員という高位聖職者の叔父の助言をもらい、避難もかねて旅にでた。3年経過後、彼は帰郷することになる。家族と伯爵家の養女でありレオドガーの婚約者でもあるオイゲーニエのもとに帰ってきた。そして幸せな日々を送る。そんなある日、旅の途中で馬車が壊れて立ち往生したため、宿を求める美しい声をした美女が現れた。彼女はヴァル・アンブローサ侯爵夫人と名乗り、教皇領出身であると答えた。侯爵夫人はそのまま滞在するが、レオドガーは侯爵夫人にだんだんと好意を寄せていく。それにつれてオイゲーニエはやつれていくようになる。
そしてレオドガーには官吏の娘であるエミーリエという幼馴染がいた。エミーリエはレオドガーのことを好いていてが、身分が違うこととレオドガーがオイゲーニエを愛するようになってしまったため、彼女は失恋により狂気に陥ってしまった。理解力などは子供なみになり、オイゲーニエのことは人間の姿を取っているだけの精霊であるという妄想を抱くほどだった。そんな狂気に陥ったエミーリエは人間の理性では持てない感覚を持っていたため、ヴァンブローサ侯爵夫人を化け物呼ばわりして、その策略に乗らないようにレオドガー達に警告する。だが当然気狂い妄言だとして侯爵夫人は怒るし、レオドガー達もまともには相手にしなかった。
そうこうしていると、ますますオイゲーニエはやつれていき、彼女は修道院行きを決意する。レオドガーも子を産めないような女は御免だというし、両親も立て続けに子をなくしたこともあり、ぜひとも孫を抱きたいという思いから、息子と侯爵夫人の結婚を前向きに検討する始末。そしてオイゲーニエが亡くなったと知らせが入る。同時に聖堂参事会員である叔父がやってきて、事の顛末を聞く。そしてエミーリエが現れ、レオドガーが襲われたと告げる……
少々長くなったが、登場人物は以上に述べた通り。森口の論文であらかじめ知っていたが、作中に「ヴァンパイア」という言葉は一切出てこないし、今みたいに首筋にかみつくという方法ではない。だが「胸から血を飲む」「杭を心臓に打ったあと燃やす」という、東欧の民間伝承に伝わる吸血鬼の特徴を描写していたので、ラウシュニクは間違いなく吸血鬼についてある程度のことは知っていたことが伺える。
最初に森口の論文を見たとき、謎が解明されないままであることはわかっていたのだが、改めて物語を読んでみると、確かに伏線ぶん投げというか明らかに説明不足だった。ツェレンシュタイン伯爵一家を襲ったのはお判りの通り侯爵夫人であるが、侯爵夫人は「この一族に対する我が先祖の呪いの現れ」とだけしか語らない。おそらく侯爵家とツェレンシュタイン伯爵家との間に何かしらの因縁はあるようだが、その因縁の説明や、なぜ伯爵家を根絶させるように至ったかの説明が全くないので、なんとも煮え切らずにモヤモヤだけが残ってしまう。
先ほど紹介したコトウスキによると、この作品はゲーテの「コリントの花嫁」に登場する花嫁の影響を強調している。つまり侯爵夫人は「宿命の女(ファム・ファタール)」であるという。物語を読む前に森口の論文で知っていたが、実際物語を読んだときは、侯爵夫人がファム・ファタールとは思えなかった。確かに美女に溺れる若者という構図なので、死人花嫁はファム・ファタールな物語と言えることは理解しているのだが、レオドガーが侯爵夫人に骨抜きになる様子があっさりしたものであることと、レオドガーが婚約者がいたことで「ただの浮気者」という印象が強くなってしまったのが原因だ。
この物語で一番注目すべき点は、レオドガーの叔父にあたる聖堂参事会員が、吸血鬼小説史上最初の「ヴァンパイア・ハンター」であるとみなしてよいということだ。これも先ほどのコトウスキがそう主張している。森口の論文を読むまでは最初のヴァンパイア・ハンターが登場したのは女吸血鬼小説として有名なレ・ファニュの「カーミラ」が最初だと思っていた。詳細は忘れてしまったが、実際カーミラがヴァンパイア・ハンターが登場した最初の物語と主張している本があったのを覚えている*1。
確かに聖堂参事会員は侯爵夫人を「人間ならざるもの」と認識しており、実際「心臓に杭を打ってその後燃やす」という、我々日本人でもよくしる「吸血鬼退治方」で侯爵夫人を殺していることから、確かにヴァンパイア・ハンターといっても過言ではないことが伺える。森口の論文ではあまり聞きなれない「宿命の男」でもあるとして解説しているので、そちらもぜひご覧頂きたい。
あと紹介しておきたいことは、ラウシュニクはこの「死人花嫁」を作る際、フリードリヒ・ラウンとアウグスト・アペルの合作「幽霊の本(Gespensterbuch」に収録されたラウンの同名の小説「死人花嫁」から影響を受けたと、先ほどのコトウスキは多少の断りを入れつつ示唆していることだ。そして「最初の吸血鬼小説」を作ったといっても過言ではないジョン・ポリドリがこのラウン版を知っていた可能性が高いという。当ブログで「吸血鬼の元祖解説シリーズ」の記事で紹介したように、1816年のスイスのディオダティ荘において、詩人バイロン卿、フランケンシュタインの作者として名高いメアリー・シェリー、ジョン・ポリドリらのメンバーが暇つぶしとして「ファンタスマゴリアーナ」という怪奇譚を読んだ。その後バイロンの提案により自分たちでも怪奇譚を書こうといった結果、メアリー・シェリーはかの有名な「フランケンシュタイン」を作り出し、ポリドリも後に「吸血鬼」を生み出すきっかけとなった*2。
その「ファンタスマゴリアーナ」は「幽霊の本」のフランス語訳であり、少なくともメアリー・シェリーはラウン版には言及しているというから、ポリドリも知っている可能性が高い。実際ラウン版に出てくる侯爵は、吸血鬼ルスヴン卿に似ている部分もあると森口は指摘している。
この辺りのことは今回のアンソロジーや森口の論文をぜひ参照してほしい。また「幽霊の本」は国書刊行会より2023年7月に「幽霊綺譚 ドイツ・ロマン派幻想短篇集 」というタイトルで邦訳化された。ラウン版も「死の花嫁」というタイトルで収録されているので、気になる方はぜひそちらもご覧いただくといいでしょう。
カール・シュピンドラ―「ヴァンパイアの花嫁(1826)」(原題"Der Vampir und seine braut")
題名に「ヴァンパイア」とあるが吸血鬼は登場しない。墓からよみがえった男が、吸血鬼と勘違いされてしまった例だ。この物語の根幹は男女の愛憎劇にある。この時代特有の回りくどい言い回しの多用、登場人物の呼び方がコロコロと変わることもあって読みづらかったというのが最初に出てきた感想だ。
森口の解説によると、フロレンティーネをデル・カーネ(アンジェロ)から守ろうとする兄フォン・エッシェンは、妹を吸血鬼ルスヴン卿から守ろうとする兄のオーブレ―そのものだという(ジョン・ポリドリの小説「吸血鬼」より)。ルスヴン卿の正体を(誓約により)口外できないオーブレ―は次第に憔悴して狂っていくが、その様子はフォン・エッシェンの狂気に受けつかがれていると解説がある。エッシェンは初見だとただの気狂いにしか見えなかったので、そうなのか?と思った。だがよく考えるまでもなく、ポリドリの「吸血鬼」に登場するオーブレーは、オーブレ―視点で描かれていたので気狂いとは思えないのだが、はたから見れば確かにオーブレ―は気狂いとしか思われないだろう。第三者目線からオーブレ―を見れば、エッシェンのように見えるのも当然だろうと思い至った。
この時代の吸血鬼作品はまだ今のように「吸血鬼観」が定まっていないことが伺えて面白い。エッシェンは「ヴァンパイアは脳から血を吸う」というし、デル・カーネはフロレンティーネの息子ユリウスを救うために、ナイフで刺された胸の傷口から血を吸う。これは瀉血が医療行為だと思われていたからの行動のようだ。ともかくそれによりデル・カーネはユリウスを救う医療行為をしていたにもかかわらず、その様子を見られたがためにヴァンパイアと勘違いされてしまう。のちに誤解だとわかるが、彼は結局は死んでしまう。
ストーリーは一言で言えば愛憎劇で、そこに各登場人物の思惑が合わさって事態がややこしくなっていくという感じだ。終盤、デル・カーネは思い人フロンティーネの息子ユリウスを最後に一目みようと寝入ったところに出向くと、元嫁のテレサが現れた。彼女は傲慢なふるまい、浪費癖が激しいなどデル・カーネが逃げ出したいと思うほどの悪女で、デル・カーネとよりを戻そうとするが断られると怒りの矛先をユリウスに向けた。デル・カーネはユリウスを抱きかかえていたにもかかわらず、かばえずにユリウスは胸刺されて重傷を負ってしまう、というシーンがあるのだが、ここは非常に萎えてしまった。
デル・カーネはユリウスを抱きかかえて「この無垢な子を前にしては、お前の腕も鈍るだろう!」と、テレサの善性に期待していたこと、あとユリウスを抱きかかえていたにも関わらず、かばえきれずにあっさりとユリウスを刺されてしまったことが、デル・カーネがあまりにも無能に見えてしまった。いやあんた、傲慢なふるまいが嫌で逃げ出したんだから、なぜ善性に期待すんだよ……というつっこみと、自分でかばえる位置にいながらかば得きれないって無能にもほどがあんだろ……という感想がどうしても出てきてしまった。まあデル・カーネが無能というよりかは、現代の創作にもありがちな、物語の都合で登場キャラのINT(知力)があからさまに落ちている現象が、デル・カーネに起きている。これがユリウスがテレサの手元にあって、デル・カーネが手出しできない状況ならわかるんだけど、かばえる位置にいながら刺されてしまうというのはあまりにも無理がある。作者は違うというかもしれないだろうが、私にはそう見えてしまった。もう少し自然な展開なら評価も変わっていた。
この作品で注目すべきことは森口も指摘しているように、この時代の「吸血鬼観」が現代とは違っていることが伺える点だ。エッシェンは妹に対して「吸血鬼は脳から血を吸う」というようなことを言っているし、デル・カーネは首筋でなく胸から血を吸っていた(医療行為としての瀉血)ため、吸血鬼と勘違いされている。ポリドリの「吸血鬼」の登場するルスヴン卿は創作史上初「首筋に歯を立てて血を吸った」吸血鬼であり、この作品にもポリドリの影響が指摘されているが、「首筋から血を吸う」というのはまだまだ一般的でなかったことが伺える。
J・E・H「ヴァンパイア アルスキルトの伝説(1828~29)」(原題"Der Vampir.saga")
この作品は1819年のジョン・ポリドリの「吸血鬼」の流行から生まれた作品だ。ポリドリの「吸血鬼」は人気となり、その年のうちに重版を重ね、複数の言語でもあっというまに翻訳化されるほどだった。そしてフランスではシャルル・ノディエの手により、「吸血鬼、序幕付三幕のメロドラマ」”Le vampire,melodrama en trois actes avec un prologue”という名で劇が作られた。これは大ヒットして、あの大デュマも見にいって後年自分でリメイクしたほどだ。そのノディエの劇の台本は1822年、ハインリヒ・ルートヴィヒ・リッターにより「吸血鬼、あるいは死者の花嫁、三幕もののロマン主義演劇」”Der Vampyr, oder die todten Braut. Romantisches Schauspiel in drei Akten”という名でドイツ語訳にされた。そのリッター版をもとに少なくとも二つのオペラが作られた。一つは当ブログでもおなじみ、台本:ヴィルヘルム・アウグスト・ウォールブリュック、ハインリヒ・マルシュナーが作曲したオペラ「吸血鬼、二幕もののロマン主義オペラ」"Der vampyre,Romantische Oper in zwei Akten"(1828年)そしてもう一つが、ツェーザル・マックス・ハイゲル台本、ペーター・ヨーゼフ・フォン・リントパイントナー作曲の「吸血鬼、三幕もののロマン主義オペラ」”Der Vampyr. Romantische Oper in drei Akten"(1828年)である。この辺りのことは上記の過去記事で詳しく解説している。
前置きが長くなったが、J・E・Hによるこの小説はそのハイゲル/リントパイントナー版をもとに、さらに独自設定を加えてノベライズした作品となる。作者名はJ・E・Hとして記されていないが、ヨーゼフ・エマニュエル・ヒルシャーではないかと考えられている。
ウォールブリュック/マルシュナー版は現在でも演奏されて当ブログでもたびたび紹介しているが(というかある意味当ブログの一番の人気コンテンツ)、リントパイントナー版はCDすらも見当たらない。なのでオペラからさらに改変されているとはいえ、ハイゲル/リントパイントナー版の内容を見ることができて非常にうれしかった。
実は森口は2020年に「矮小化されるルスヴン卿 --1820年代の仏独演劇におけるヴァンパイア像--」:京都大学大学院独文研究室研究報告刊行会において、ノディエ版、ウォールブリュック版、ハイゲル版をそれぞれ比較紹介しており、大まかな内容はその論文を見ていたため把握はしていた。元のポリドリ原作では、オーブレ―はギリシアでイアンテという娘に恋するも、ルスヴンが血を吸って殺してしまう、そして妹だけでもルスヴンの毒牙から守ろうと決意するも、結局はルスヴンの策略にはまって、妹すらも守れず失意の中で自分も死んでしまうというオチだ。これがノディエ版になると、イアンテの件が省略されて、ポリドリ原作では名前が一切出なかった妹に、マルヴィーナという名前が与えられて、内容も兄オーブレ―は妹を守ることができたというハッピーエンドに変更された*3。
そしてウォールブリュック/マルシュナー版では妹であったマルヴィーナが恋人という設定に変更され、婚約者であるマルヴィーナをルスヴンから寸前のところで救い出すことができ、改心したマルヴィーナの父からも結婚の許可が下りて幸せになるという、より勧善懲悪で明瞭なストーリーに変更されている。
では同じリッターの台本から作り出されたハイゲル/リントパイントナー版はどうなのかというと、なんとオーブレ―が吸血鬼になってしまう。といっても原作のオーブレーの面影は一切ないので、単にルスヴンからオーブレーに名前変更しただけというものだった。
以上の事前情報を得ていたうえでJ・E・H版を読んでみたわけだが、さらに複雑な設定が組み込まれていて、読んでいてしんどかった。設定だけ凝った素人小説を読んでいるかのような感じと言えば伝わるであろうか。ハイゲル版からの追加設定として、アルスキルトの亡霊がロナルドの遺体に取り付いているという設定、自分の一族の女性を愛した若者の死体にしか取り付くことができないとか、自分が死者であるという印を示さなくてはならなかったりと、森口も「ごてごてと設定を付け加えている」というほどだ。
この作品も愛憎劇なのだが、ぶっちゃけ面白いとは思えなかった。一言で言えばカタルシスがないのだ。オーブレーが吸血鬼化する前は、ヒロインの父が娘のイゾルデと結婚を考えていたほどであったが、なんやかんやあってオーブレーは一度死ぬ。その後イゾルデは男爵のイポリートと恋仲になる。だが吸血鬼としてよみがえったオーブレーをみて、イゾルデの恋は揺れ動くのである。こうしたドロドロとした愛憎劇は単純に好みではない。あと、オーブレー側も完全には悪いとは言い難い内容になっていたのが気に食わなかった。
ウォーリュブリュック/マルシュナーもハイゲル/リントパイントナー版も、ストーリーの軸としては、吸血鬼の魔の手から恋人を守ろうとし、そして守り切れることができたというものだ。ところがこのアレンジ小説では、吸血鬼が元カレ*4なので、完全に憎み切れないキャラクターとして登場する。漫画やアニメの二次創作を見たことがあるお分かりになると思うが、既存作品のキャラクターだけを借りて、もはや原作を無視したストーリを展開する二次創作を見たことがある方もいることだろう。独自設定をゴテゴテと付けたこと、あえて逆張りな展開をするなど、気持ち悪い二次創作を見ているかのような気分にさせられた*5。
一つ擁護するならば、この小説はハイゲル版のオペラ台本を元にしているが、元を辿ればポリドリ小説「吸血鬼」が原作だ。そしてポリドリ版は、好きになった女性を守れず、妹すらも守れずに完全敗北して、怒りと屈辱のあまり頭の血管を破って死ぬというバッドエンドだ。この小説ではイポリートはイゾルデなしに生きるつもりはないとして、自刃してしまう。ここだけ見ると「愛するもの(ポリドリ版では妹、この小説では恋人)を守れず、自身も死んでしまう」という、ポリドリ版と同じ流れなので、元に戻したという見方もできる。だがその展開の持って行き方に大いに不満がある。一度オーブレーに止めを刺すも、イゾルデがオーブレーのもとに駆け寄る。そしてちょうど月光がオーブレーに降りかかったためオーブレーは蘇り、イゾルデの血を飲んでしまい、イゾルデは死ぬという展開だ。なんか色々と無理やり感があって、やっぱり逆張り展開にしか思えなかった。あとイゾルデの煮え切らない態度も、「ビッチ」な女に感じて魅力的なヒロインに思えなかったことも評価を落とした理由だ。
吸血鬼の特徴としては、ポリドリの原作と同じように、吸血鬼は月光を浴びると復活するというものがある。ウォーリュブリュック/マルシュナー版でもそうだったが、この作品でも「吸血鬼は月光を浴びると復活する」という特徴が強調されていた。ポリドリからしばらくは主流だったが、次第に廃れてしまった設定だという。この辺りはいずれ「ポリドリの吸血鬼解説」で詳しく述べる予定だ。
最期に注目しておくべきことは、催眠効果をもつ眼差しという能力をもっていることだ。森口はバイロン的ヒーロー*6と関りがあり、観相学から映画におけるドラキュラ伯爵の目にまで関係しうる、これまた重要な研究テーマとしてとらえている。
吸血鬼形成の歴史としては避けて通れない作品ではあるが、単純な物語として私はあまり評価できなかった。
イシドーア「狂奏曲 -ヴァンパイア」(原題"Der Vampyr Ein Capriccio")
作者名はIsidorとしか表記されていないが、おそらく、カール・イシドーア・ベック"Karl Isidor Beck"のことだろう森口は述べる。他にもFranz Isidor Proschko、Isidor Hellerなども挙げられるが、決め手に欠けるといい、森口はカール・イシドーア・ベックとして話を進めている。
この作品は2つのパートに分かれており、冒頭ではこれまで何度も話題にしたウォールブリュック台本、ハインリヒ・マルシュナー作曲のオペラ「吸血鬼」について、友人たちが批評している場面から始まる。他にも今回のアンソロジーに収録された「死者を起こすなかれ」や「ヴァンパイアの花嫁」への言及が見られ、このことから当時の読者にそれらの作品がある程度知られていたことを示唆しており、この言及は重要だと森口は指摘している。
個人的にはマルシュナーのオペラについて語り合っているシーンが興味深かった。マルシュナーはオペラ「魔弾の射手」で有名なカール・マリア・フォン・ウェーバーの助手であり、マルシュナーが作曲した「吸血鬼」は、その「魔弾の射手」の影響を大いに受けた作品だとされている。そしてその「吸血鬼」、「ワルキューレの騎行」で有名なリヒャルト・ワーグナーが幼少時に公演を生で聞いて*7多大な影響を受け、後年ワーグナーが「吸血鬼」の影響を受けて作曲したオペラが「さまよえるオランダ人」だという。このことでマルシュナーはウェーバーとワーグナーのつなぎ役をしたと評価される。(作品名で言えば「魔弾の射手」→「吸血鬼」→「さまよえるオランダ人」)さらに余談だが、マルシュナーは次第にワーグナーの陰に隠れてしまい、晩年はほぼ忘れ去られてしまったという。
そんなマルシュナーの「吸血鬼」がこの作中において、師のウェーバーの影響(魔弾の射手)の影響を受けたものと理解していたのが、非常に興味深かった。
物語の途中からは、登場人物が書いた物語が語られるという内容になるその物語を読み終えたあと、その物語の内容はどうも現実にあったことではないのか、言い換えると「吸血鬼は本当に存在したのでは?」という感じで終わる。物語の内容が現実を侵食するかの内容なのだ。森口によれば、最初の友人たちの芸術談義といい、現実と非現実の境界の曖昧化といい、どうもベックはE.T.A.ホフマンを参考にしている節があるという。ホフマンのゼラピオン同盟では、メンバーのツィープリアン(本名アーデルベルト・フォン・シャミッソー、岩波文庫から「影をなくした男」が刊行されている)が「吸血鬼の女」の物語を語る前、吸血鬼に関する談義を行っている。このホフマンの「ゼラピオン同盟」に関するエピソードは、森口の2016年の論文「19世紀前半におけるヴァンピリスムス -E.T.A. ホフマンに見るポリドリの影響-」において詳しく解説されている。ネット上ですぐに閲覧可能なので、興味があればぜひ。
現実と非現実の曖昧化というオチは、よく言えばホラー的ともいえる結末だが、私はなんとも煮え切らない、締まらないオチに思えてイマイチな印象だった。吸血鬼としても特筆するような点は見受けられなかったのも、個人的に残念に思った部分だ。
ちなみに、森口は解説の流れで、2022年3月25日初演、9月25日までYoutubeで限定公開されていたドイツ・ハノーファーで行われたマルシュナーのオペラ「吸血鬼」を紹介していた。現在は視聴できないが、OPERA VALTというサイトでDVDを通販しており、それを入手することでしか今は視聴できない。他のオペラ販売サイトHouse Of Operaでは、教育などの非営利目的で且つ低画質であればパブリックドメインになるとあったので、OPERA VALTでも似たような感じなのだろう。さて購入だが、以前リニューアルする前に後述するクソオペラのDVDを、個人輸入代行を使った入手できている*8。そしてリニューアル後の現在は、メール連絡すればデータのみの送付も可能なようだ。興味がある方はトライしてみるのもいいだろう。
2022年ドイツ・ハノーファー版のオペラ「吸血鬼」販売サイト
https://operavault.com/dvd21191dervampyrmarschner.aspx
となると気になるのが、ある意味日本人向けで当ブログで一番人気の2008年のクソオペラ版の存在を森口氏がご存じであったのかが気になる。
だが最近、Youtubeで新たに投稿されたのを発見、それとは別にオペラ専門サイトでアップロードされたのを見つけた。Youtubeは後半のみだが、専門サイトのほうが全編通して視聴できるので、まだ見たことがない方はぜひご覧頂きたい。
ぜひとも紹介してほしかったが、まあ真面目な書籍では無理だろう。だからこそ私みたいな存在が必要だともいえる。そもそもこのクソオペラ、大分前に削除されてしまっていたので、森口氏が知らなかった可能性も否定はできない。
動画をクリックすると、別サイトに飛んでそこから視聴可能
Der Vampyr (Marschner) Szeged 2008 Kearns Haffner Le Charles - Opera on Video
そのオペラは感想記事の他、ニコニコ動画でも感想動画を上げているので、そちらもぜひご覧頂きたい(2024.6月現在、ニコニコ動画はサイバー攻撃からの復旧中の為、閲覧不可)。
ヒルシュとヴィ―ザー「ヴァンパイアとの駆け落ち(1835)」(原題"Der Vampyr. Novelle")
作者名はHirsch und Wieserとしか記されていないヒルシュに関してはRudolph Hirschでほぼ間違いないといい、ザムラーに関してはJoseph Ritter Wieser von Mährenheim の可能性が高いという。
内容の説明を簡単にしていこう。銀行家のフォン・ハルム氏には二人の娘、ルイーゼとマリーがいる。そのうちのマリーは、男嫌いであった。だが机にバイロンの「吸血鬼」(本当はジョン・ポリドリの作品)があって、どうもそういった魑魅魍魎の類にはある種の興味を抱いていた。あるときリントパイントナーのオペラ「吸血鬼」を観劇する。そこで吸血鬼役の男に惚れてしまう。そして吸血鬼役の男となんやかんやで駆け落ちするが……という内容。読書諸姉"Leserinnen"と女性形を使っていることから、読者層を女性を想定していた可能性が高いという。
森口はポリドリの「吸血鬼」の影響(作中ではバイロン作)で吸血鬼に興味を抱く娘が、吸血鬼役の演じる俳優に惚れるという展開は、当時すでにヴァンパイアがある種のアイドル的存在として受け入れられていたという事実を反映していると言っていいだろうとしている。他にも男性という異性に対する恐怖は、マリーの内面ではヴァンパイアへの恐怖と一体化しているなどとも評価している。
吸血鬼を題材としたホームドラマといった内容。なので実際に吸血鬼が登場するわけではないので、吸血鬼の特徴の方に興味のある私としてはそこは肩透かしを食らった。けどただならない雰囲気で物語が進行するなか、最後のネタばらし「ホラー展開かと思っていたら、実は平和な内容だった」という、今の創作でも見られるオチだったのが、個人的にはよかった。ただしこの作品は性差別ととられかねない内容を含んでいるので、そうしたあたりが気になる人は評価が低くなるかもしれない。
F・S・クリスマー「ヴァンパイア ワラキア怪奇譚(1835)」(原題"Der Vampyr: Eine Erzählung")
F・S・クリスマーはFranz Seraph Chrismarのことだとされるが、この人物の情報は少ないという。物語はワラキアの旅の一行の話。とあるキャラバンでは偶然様々な国の人が集まることとなり、自然と打ち解けあることになる。そしてとあるワラキア人が同郷の話を語りだす。それは「この地方ではヴァンパイアが暴れまわっている」というもの。こうしてワラキア人が語ったヴァンパイアの話は闇夜の雰囲気も相まって、一種の怪談話といった趣といった感じだ。
そしてその見知らぬ男は催促されて別の話を語りだした。それはワラキアではオスマン帝国との争いが頻発した、当時のヴォイヴォーテ(ワラキア等で用いられた君主の称号)の話題で、そのヴォイヴォーテは同世代の者たちから悪魔公ヴラドと呼ばれていたと語りだす。ヴラドは、トルコの使者たちの頭にターバンがしっかりくっつくように釘を撃ち込ませた。けど奴は隣人愛にあふれていて、かつて国中の物乞いをあつめて豪勢な食事を与えたが、その後物乞いたちのいる館に火を放ち、全員を焼き尽くした。ヴラドは自分で宴を催す際、たくさんの人間に囲まれているのを好んだが、一番好んだのは捕虜にしたトルコ人たちを生きたまま突き刺した、三百から四百もの杭で見事にこしらえた森のなかで食事をとることだった。
そう、この物語は1897年のブラム・ストーカーの「ドラキュラ」に先駆けて、串刺公として有名なヴラド・ツェペシュを吸血鬼のモチーフとして扱った作品なのだ。先ほど挙げた残虐行為は、ヴラドが行ったエピソードとして有名なものがかりだ。実はストーカーのドラキュラの方はヴラド・ツェペシュがモデルと言い切るには根拠が薄く、そのあたりのことは今回の書籍でも森口が詳しく述べている。
ヴラド・ツェペシュがドラキュラのモデルと言い難いというのは知ってはいたのだが、ドラキュラに先駆けてヴラドを吸血鬼にした作品があることは今回初めて知った次第。大半の方々も知らないであろう。この作品は非常に短いが、その意外性からアンソロジーのトリを務めるのに相応しい作品だと言えるだろう。
2つばかり余談を。一つ目は、ヴラド・ツェペシュに関して面白いマンガを紹介したい。それはハルタコミック刊行の大窪晶与のマンガ「ヴラド・ドラクラ」である。ヴラドと聞くと大半の人は残虐なイメージが付きまとうが、このマンガのヴラドは非常に紳士然とした人物。そして数々の有名な「残虐エピソード」もあるが、「そうせざるを得なかった」という感じで描かれているのが非常に面白い。残虐エピソードもグロいという感じでは描かれていないので(腐った人間の画像はあるが)、興味がある方はぜひ読んでみてほしい。
物語の感想は以上となる。吸血鬼のアンソロジーを紹介、個人的感想を述べてきたが、吸血鬼そのものに興味がある人にはおすすめできるが、現代的な「ステレオタイプ」な吸血鬼象に凝り固まっている人や、純粋に面白い物語を求めている人には正直おすすめはできない。個人的に面白いと思えたのは前回紹介した「死者を起こすなかれ」ぐらいだ。後の作品は当時の外国小説にありがちな、日本人にはなじみのない言い回しや比喩表現が多用されていて読み辛いという感想がどうしても先に出てしまう。当時の価値観もわからないことも、それに拍車をかけている。というか今回のアンソロジーの趣旨も、こうした文学史的・吸血鬼の歴史的作品の紹介という面が強いはずだ。
荒俣宏氏が「怪奇文学大山脈1巻」において、こうした古典の怪奇小説は古臭いものと思うかもしれない、だが「勘所をつかめば、ヴィンテージに早変わりするのだ」と述べていた。自分なりに「勘所」をつかもうとした結果、つかめたのは「死者を起こすなかれ」ぐらいだった。あとは吸血鬼形成の歴史という方面に興味がある私としては、吸血鬼の特徴面で一部興味がひかれるものがあったぐらいだ。
今回のアンソロジーを担当した森口氏は、本職はドイツの吸血鬼文学の研究者である。通常の吸血鬼アンソロジーとは違い解説が紙面の4分の1ほどを占めており、また研究者として当然というべきか、参照文献を細かく提示しており、どこか論文めいた趣となっている。こうした長い解説は森口は気にしているようであったが、ブログやニコニコ動画で解説活動をしている私からすれば、こうした細かい典拠の表示は非常にありがたい。何気にこれまで見ることがなかった「ポリドリの吸血鬼の執筆理由と、それが公開された正しい時系列」が、何気に本邦初公開となっている。作中の吸血鬼ルスヴン卿をポリドリは、ストロングモア卿にしようとしていたことも、私がニコニコ動画で紹介しただけで、書籍での紹介は初めてだ。
他にも面白い情報が満載で、中には個人的に注目したものもいくつかある。次回は森口氏の解説から感想や所見を述べていきたいと思う。この後は断続的な出張が続く予定なので、次回投稿は大分遅れてしまうことになりますが、どうかご容赦願います。
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*1:解説ブログをつくると決意する前の話なので、典拠を細かくメモしながら読み進めていたわけではない。そのため見た記憶はあるのだが、具体的な典拠は思いだせない。
*2:このディオダティ荘の出来事では、ポリドリは「吸血鬼」を執筆したわけではない。ただこの時バイロンが書いた「断片」を参照してポリドリは「吸血鬼」を書きあげた。
*3:ちなみに祖筋もかなり変更されているが、今回の主題ではないので気になる方は森口の論文を参照のこと
*4:元カレというと語弊があるが、分かりやすく元カレと紹介しておく
*5:まあ最近は商業作品でも、読者の予想を裏切ることを優先して、逆張り展開するマンガなども見受けられるが。
*6:Byronic heroとは、たとえ誤った行動をしても、賞讃される悲劇的人物像のこと。
*7:ソースは忘れたが、初回公演をきいたという
*8:クソオペラのDVDを購入したとき、アメリカからの発送だった。つまり日本とはリージョンコードが異なるので、通常なら何度か再生してしまえば日本のDVDが視聴できなくなる可能性が出てきてしまう。しかしリージョンコード変更がでなかったので、日本と同じリージョンコードのヨーロッパでダビングされたようだ。ちなみに動画のファイル名は、ソニーレコーダーと記されていた。