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吸血鬼の形成の歴史を民間伝承と海外文学の観点から詳しく解説、日本の解説書では紹介されたことがない貴重な情報も紹介します。ニコニコ動画「ゆっくりと学ぶ吸血鬼」もぜひご覧ください。

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【書評】『吸血鬼ラスヴァン 英米古典吸血鬼小説傑作集』(東京創元社)の簡単な内容紹介と感想

吸血鬼ラスヴァン

 前回、2022年6月に発売された東雅夫編「吸血鬼文学名作選」を紹介しましたが、今回は2022年5月30日に東京創元社より発売された「吸血鬼ラスヴァン 英米古典吸血鬼小説傑作集」:夏来健次/平戸懐古・訳を紹介します。これはいまや吸血鬼のスタンダードとなった1897年のブラム・ストーカー「吸血鬼ドラキュラ」以前の吸血鬼作品に焦点を当てて刊行された吸血鬼アンソロジー。日本ではこれまで紹介すらされたことがない作品も含まれています。吸血鬼の元祖はドラキュラではなくて、ポリドリのルスヴン卿であると言いたくて、ニコニコ動画やこのブログで吸血鬼の啓蒙活動をしている私にとっては、まさに願っても無い一冊。吸血鬼の歴史的にはかなり貴重なものと言え、こんなニッチな企画をしたものだと、ただ驚くばかりです。私はハードカバー版と電子版(kindle)の両方、迷わず購入しました。今回はそんな「吸血鬼ラスヴァン」の簡単な紹介と感想を述べていきたいと思います。都合上ネタバレしていくので、気になる方はご注意を。


バイロン卿「吸血鬼ダーヴェル――断章」(1819)

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 上記の「吸血鬼元祖解説」シリーズで解説してきたように、最初の吸血鬼小説とされるのが、1819年のジョン・ポリドリの小説「吸血鬼」である。この作品が作られたのは、1816年のディオダティ荘の怪奇談義と呼ばれる一夜の出来事がきっかけ。この一夜の経緯は過去の記事で散々語ってきたので、詳しいことは上記の記事を見て欲しい。


 さてディオダティ荘の怪奇談義では怪談集の朗読のあと、「自分たちでも一つ、怪奇話を書いてみないか?」とバイロンが提案する。参加メンバーのうち、従者のポリドリは「頭が骸骨になった女性の話」を、メアリー・シェリーはかの有名な「フランケンシュタイン」の執筆を始めたが、言い出しっぺのバイロンが書いたのがこの「断章」だ。吸血鬼ラスヴァンでは1819年作として紹介しているが、実際には1816年の提案した翌日に一日で書いたものだ。最も、出版したという意味では1819年で正解だが。もとのタイトルは"Fragment of a Novel"や"A Fragment"等と表記される。メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」のまえがきでも、このバイロンの作品について触れられており、「断片」と直訳されて紹介されることが多い。"Fragment of a Novel"は南條竹則によって何度か邦訳されており、「断章」というタイトルが付けられた。先ほど述べた東雅夫編「吸血鬼文学名作選」に、新しい方の南條訳が収録され、前回の記事でもレビューさせていただいた。


 今回は、元のタイトルにはない「吸血鬼ダーヴェル」とつけている。なぜこうしたのかは想像するしかないが、吸血鬼作品であることを分かり易くしたかったのだろう。そして「断片」でなく「断章」としたのは、南條訳を踏襲しているのではないかと思う。


 この作品は、現在更新が止まっている「吸血鬼の元祖解説」シリーズの、次回記事で紹介する予定。それでも簡単に紹介すると、詩人、それも推敲というものを極度に嫌ったバイロン卿からすれば、散文というのは冗長過ぎて耐えられず、たった一日で筆を置いた未完成作品*1。この翻訳では「吸血鬼ダーヴェル」と銘打たれているが、実は血を吸う描写はないし、"vampire"という単語すらも出てこない。だがバイロンはこの後、吸血鬼を登場させる予定であったらしい。


 未完成でありながら、その展開は非常に気になる運び方をしており、一番いいとろこで終わってしまう。正直、このまま続きを読んでみたいほどで、筆を途中で置いたことが悔やまれる。バイロンの叙事詩「チャイルド・ハロルドの巡礼」は、オスマン帝国支配下のギリシアを題材としている。自分でオスマン帝国を旅した経験も活きたようで、この異国情緒感にあふれる世界観は、当時の英国で大変受けたという。この作品も、そんな異国情緒あふれる作品で、短いながらもその世界観に引き込まれた。


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 南條訳の「断章」は既に何度もみており、この前も上記のように感想記事を上げさせて頂いた。今回の訳で気になったことは、やはりイェニチェリの部分。作中、"Janissarie"は2度出てくるが、どうも初期の南條訳を参考にしたらしい。初期南條訳と同じく、最初は「護衛(イェニチェリ)」と護衛にふりがなをうち、2度目は単に「護衛」とだけ表記していた*2。わかる人からすれば、イェニチェリと聞けばそれだけで普通のトルコ兵とは違うと分かるし、受け取る印象も違ってくる。ただの護衛やトルコ兵では異国情緒感が損なわれてしまう気がしてならない。漫画「ヘルシング」でもイェニチェリは出て来たし、今日、検索すればすぐにわかる。前回の記事と同じことを言うが、ここは「イェニチェリ」のままにして欲しかった。


 次に気になったのが、原著はイスラム教のことを"Mahometan"と表記している。これは当時のキリスト教がイスラム教を指すときに使っていた言葉で、日本語ではマホメット教と訳される(参考サイト)。南條訳は忠実に「マホメット教」にしていたが、今回は単に「イスラム教」にしていたのが不満だ。ただ、この改変は仕方がない面もある。この"Mahometan"という呼び方はイスラム教徒に不快感を与えるというから、昨今の事情を鑑みてイスラム教とせざるを得なかったのだろう。ただそれでも、当時はそう呼んでいたことは事実であり、当時の文化をありのままに伝える観点からも、素直に伝えるべきではないか。ここれも注釈をいれて注意喚起しておけば、「まともな神経」の持ち主なら翻訳者に差別の意図はないことは伝わる。表現の自由の観点からも、ここはマホメット教にして欲しかったところ。この物語は解説の一環で、ゆっくり劇場で再現しニコニコ動画で投稿したので、興味がある方はぜひご覧になってみて下さい。



ジョン・ポリドリ「吸血鬼ラスヴァン――奇譚」(1819)

 ジョン・ポリドリ「吸血鬼」の新訳にて、このアンソロジーのタイトルにもなった作品。原著のタイトルどおりこれまでは単に「吸血鬼」というタイトルで紹介されてきた今作であるが、分かり易くするためかあえて「ラスヴァン、奇譚」という言葉を付け足したタイトルにされている。ラスヴァンは作中に出てくる吸血鬼のことで、これまではルスヴン卿と表記されることが多く、当ブログでも散々ルスヴンと表記してきたが、今作では現代流布発音に近いラスヴァンをあえて取ったとある。


 ポリドリの「吸血鬼」は佐藤春夫訳、平井呈一訳、今本渉訳があるが、数年前まではどれも入手が難しかった。だがここ数年、アンソロジーで再録されるようになり、そして今回は電子版も入手が可能ということで、一気に手に取り易くなった。最初の吸血鬼はポリドリの「吸血鬼」ということが言いたくて吸血鬼の啓蒙活動を始めた私としては、嬉しい限り。今では今本訳が一番入手し辛くなった。


 ディオダティ荘の怪奇談義の時、ポリドリが作ろうとしていたのは「頭が骸骨になった女性」の話で、メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」のまえがきでも触れられている。その後バイロンと喧嘩別れした後に、バイロンを揶揄するつもりで書いたのが「吸血鬼」だと言われている。だが最近、当時初めて収録されていたときに一緒に紹介されていた手紙や、当事者ポリドリの日記を読むと、どうもそうじゃないらしいというご指摘を頂いたが、説明するとなるとかなり長くなるので別の機会に紹介する*3。とまれ、吸血鬼を題材にしていることから、バイロンの「断章」の影響を受けたのは明らかだとされる。とくに「誓約」のシーンなどはあからさまである。本作を見るのならば、バイロンの「断章」とセットで必ず見て欲しい作品だ。


 前回の「吸血鬼文学名作選」の時に述べたように、佐藤訳は文体が古臭すぎて今見るには辛い。私には合わない。平井訳はまだ読めるが、それでも「もとより承知の助」を筆頭に、やはり少々文体が古い。今本訳は他の2名と比べると読みやすい。今回の訳は私には一番合っていた。


 ただ今回の平戸訳は、明らかな誤訳と思われる個所がある。オーブレーとラスヴァンがイタリア・ローマに赴いたときのこと。オーブレーは町の散策、ラスヴァンはさるイタリア伯爵夫人の集会に参加と、二手に分かれて行動していた。その後オーブレーは、家族からの手紙でラスヴァンの悪い噂を知り調査を行う。そのシーンにおいて「(ラスヴァン)が公爵夫人の娘の無知に付け込もうとしたのである」という一文が出てくる。この公爵夫人は、どう考えても伯爵夫人の間違いだろう。元の英語に" countess(伯爵夫人)"は出てくるが"Duchess(公爵夫人)"は出てこない。


英語原文
that his Lordship was endeavouring to work upon the inexperience of the daughter of the lady whose house he chiefly frequented.


日本語訳
卿が頻繁に出入りしている婦人の娘の無知につけこもうとしていた。


英語の原文はプロジェクト・グーテンベルクから引用
The Project Gutenberg E-text of The Vampyre, by John William Polidori


 元の英語では単に「夫人の娘」としかなく、爵位を示す単語はない。だから猶更、ここは一度も出てきていない公爵夫人であるはずがない。爵位に関する単語が出てきたのは伯爵夫人のみ。佐藤や平井は爵位に関しては言及せず、今本は「件の伯爵夫人」と表記している。なぜこんな間違いをしてしまったのだろうか。重箱の隅をつつくかのような指摘であるとは承知しているが、やはり気になってしまった。


 オーブレーがラスヴァンと分かれてギリシアに訪れたとき、オーブレーはIantheという少女に恋をする。このIantheはこれまでの翻訳では、イヤンテ、もしくはイアンテと表記されていたが、今回の訳ではアイアンシーとなっていた。このアイアンシー表記は、以前も誰かが使っていたのを覚えおり*4、その時はこれは表記ミスではないかと思っていたが、今回はそのアイアンシーが採用されていた。ただGoogleやDeeple翻訳で英語やギリシア語で発音させてもイヤンテだった。検索すると、ファッション関係のサイトとかで、アイアンシーと表記していたのが確認できたから、恐らく何らかの根拠はあるようだ。だがなぜアイアンシーにしたのか気になって仕方がない。


 この物語の詳しい感想は、今後投稿予定の「吸血鬼の元祖解説」シリーズで紹介予定だが、述べていこう。最初読んだのは平井訳であったが、その時はただ時系列を並べただけの小説で、当時絶賛されるほど面白いものかこれ?というのが率直な感想だった。特に最後の展開は、今見ても性急過ぎるというか、前半と比べる展開が雑になった印象。これは私個人の意見というだけでなく、実際、他の批評家の人も同じような指摘をしている。私が気になったところと言えば、オーブレーの後見人は、旅行中のオーブレーに「ラスヴァンに気をつけろ」という忠告の手紙を送っている。ラスヴァンは女性を食いものにしているとして、社交界では悪い噂が絶えなかったからだ。にもかかわらず、偽名を使ったラスヴァンに気が付かず、妹の婚約者として認めている。後見人も周囲も誰一人、オーブレーの妹の婚約者がラスヴァンであると気が付かないというのは、少々無理がある。せめて顔を変えていたという設定があれば、話の矛盾を感じさせなかっただろうにと思う。そしてラスヴァンはマースデン伯と名を偽っていたのだが、これも身辺調査すればいくらでも怪しい点は出てきたはずだ。貴族ならなおさら身辺調査は欠かさないはず。まあ言及していないところで、上手くだましたとかあるのだろうが、そうした部分にも言及していれば、「展開が急すぎる」という批判もなかっただろう。そして終盤、周囲の人々はオーブレーを狂人扱いしていたのに、死の間際のオーブレーの言うことは素直に聞いてたあたりが、展開が雑と感じた部分だ。


 だが、ニコニコ動画でゆっくり劇場に再現したときは、「意外と悪くない」と思った。不正確な情報で申し訳ないが、ニコニコによせられたコメントによれば「大デュマは(ポリドリの吸血鬼は)筋は悪くないと評価していた」ということだった。実際、ニコニコ動画で公開したときは、当初の予想に反してかなり好評だった。ということなのでまたもや宣伝となるが、ぜひ本文とゆっくり劇場を見比べてみて頂きたい。



ユライア・デリック・ダーシー「黒い吸血鬼――サント・ドミンゴの伝説」(1819)

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 「吸血鬼ラスヴァン」発売を知り、まだ全作品が公開されていないとき、収録作品として予想が当たった作品(ちなみに予想が当たったのはこれだけ)。私がこの作品を知ったのは2020年のことで、ドリス・V・サザーランドさんによる吸血鬼ヴァーニーの解説記事を探っている途中に偶然知った。ポリドリの吸血鬼のwikipedia記事(日本語、英語両方)でも紹介されている。この作品を日本でネット上で紹介したのは、上記の私の2021年の記事と、同じ2021年に新規で作られたポリドリの「吸血鬼」の日本語wikipedia記事だろう。この作品は研究者間では有名らしく、2018年に出版された「憑依する英語圏テクスト—亡霊・血・まぼろし」に、庄司 宏子「ハイチという妖怪——ロバート・C・サンズの『黒い吸血鬼——サント・ドミンゴの伝説』にみるムラートの表象」という論文が収録されている。


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 元は"The Black Vampyre;A Legend of St. Domingo"なので「黒い吸血鬼」はまさに直訳だ。だが上記のように英語版原著とサザーランドさんの解説を見つけていたので、Deeple翻訳にかけながら読んでみると、黒人奴隷の物語であることを知った。なので、この項目の一番上で表示した私の記事では「黒人吸血鬼」というタイトルで紹介した。「黒人吸血鬼」の方が内容に沿って相応しいと思ったからだ。後に、京都大学 森口大地の「ヴァンパイアの定義にまつわる問題の解決の試み――1732年の事件と文学への進出という観点から―― 」(2022)という紀要論文を見たとき*5、森口は「黒人ヴァンパイア」というタイトルで紹介していたので*6、私の考え方は的外れでないことは確かだろう。


 作者のユリア・デリック・ダーシーは偽名で、その正体は候補が2名いる。ロバート・チャールズ・サンズが最有力とされており、Andrew Bargerはサンズ説を推している。もう一人はコロンビア大学の総代であったリチャード・ヴァリック・デイではないかとされ、2015年Katie BrayはAmerican Literature journaでそのように主張した。偽名のUriah Derick D'ArcyRichard Varick Deyのアナグラムに近いことが、その根拠だという。ただやはり、サンズが作者候補として有力なようだ。詳しいことは「吸血鬼ラスヴァン」の解説にはないので、上記のサザーランドさんの記事を参照して欲しい。


 先ほどのKatie Brayによれば、今作はヨーロッパ中を熱狂さえた、1819年のポリドリの「吸血鬼ラスヴァン」の流行にのっかって作られた小説で*7、当時間近で起きていたハイチ革命を諷刺した作品だという。ハイチ革命は西半球で起こったアフリカ人奴隷の反乱の中で最も成功した革命で、これにより自由黒人の共和国としてハイチが建国された。この「黒人吸血鬼」はいうなれば、「もし第二次世界大戦で、アメリカが負けて日本が勝っていたら」と思うのと同じようなもの言えば、想像がつくだろう。そう、これは「ハイチ革命の失敗」を仮想した小説だという。奴隷と非人間化の表現のためにも、吸血鬼という題財はちょうどよかったと解説にある。そして自国の人種主義(白人至上主義)を盛大に茶化す意図もあるという。


 以上述べたことが、この小説の本質となる部分だ。このあたりの小難しい解説は、吸血鬼ラスヴァンの方を見て頂きたい。この作品を真面目に研究している研究者の方が聞くと怒るかもしれないが、この作品は今回解説されていない、本質でない部分に惹かれる要素が多い。少なくとも私がそうだ。とくにアニメや漫画を好むようなオタク層は、こちらの方が食いつくだろう。英語wikipeidaの「黒人吸血鬼」の記事では、先ほど紹介したAndrew Bargerの本を引用し、次のように冒頭で紹介している。


「最初の黒人の吸血鬼の物語」「最初の喜劇の吸血鬼の物語」「ムラートの吸血鬼を含む最初の物語(簡単に言えば白人と黒人のハーフ)」「アメリカ人作家による最初の吸血鬼の物語」「おそらく最初の反奴隷制の短編小説」。他のサイトでは「英語で2番目に書かれた吸血鬼小説」参考サイト)とも指摘されている。さらに誰も指摘していないが、物語を読んでみると「ダンピール(吸血鬼と人間のハーフ)が出てきた最初の吸血鬼の物語」「同族を増やした最初の吸血鬼の物語」「吸血鬼から人間に戻ることが出来た最初の吸血鬼の物語」であることも分かった。


 まあ何が言いたいのかというと、人間はいつでも「最初」というものに惹かれるものだが、この「黒人吸血鬼」は、吸血鬼に関する「最初」を多く持った作品なのだ。黒人の吸血鬼、それもダンピールと聞くと、映画にもなったマーベル・コミックの「ブレイド」がまず思い浮かぶ。


ブレイド
 ただこちらは、母が妊娠中に吸血鬼に襲われたために、胎内にいたエリックは吸血鬼と人間の特質を兼ね備えたハーフという設定であるが。それでも「ブレイド」よりも前に「黒人のダンピール」という設定をやってのけた作品であることには違いない。


 2018年NHKBSプレミアムで放映された「ダークサイドミステリー」の「永遠の命!?吸血鬼伝説の真相〜人類は天敵に勝てるのか?〜」では、「吸血鬼に襲われたものが吸血鬼化するという民間伝承の設定を取り入れた作品は、1847年の吸血鬼ヴァーニーが最初というような説明をしていた。この説はダークサイドミステリーで初めて知り、実際この時はヴァーニー以前の作品で吸血鬼化する作品は知らなかったため、ヴァーニーが最初だと思っていた。今回の「吸血鬼ラスヴァン」では、ちょうどその「吸血鬼に襲われたら吸血鬼化してしまう」というあたりの話が収録されている。だが、吸血鬼ヴァーニーよりも早く、ポリドリが「吸血鬼」を出版した1819年に既に、普通の人間が吸血鬼化してしまう物語が既に書かれていた。しかも吸血鬼から人間に戻ることができたという描写さえ既にやっているというのだから、驚くしかない。吸血鬼に襲われたら吸血鬼化してしまうという物語は、1897年の「吸血鬼ドラキュラ」以前ならば、1819年「黒人吸血鬼」と、1845~1847年「吸血鬼ヴァーニー」ぐらいだろう。少なくともこの2つしか私は知らない。こうして見ていくと、この「黒人吸血鬼」はサブカルチャーとしての吸血鬼の歴史的に、大変貴重な作品だと言えるのではないだろうか。


 さて肝心の中身だが、2020年に存在を知り英語原文からDeeple翻訳しつつ見たときは、「なんか読み辛い」と思った。Deepleなのになんでこんなにも分かり辛いのだろうかと思い、自分で辞書を片手に翻訳してみても、やはり分かり辛かった。今回、このきちんとした日本語訳を見ても、非常に目が滑り読み辛かった。なんというか、自分の語彙力を自慢したい作家が、無理に難しい単語とか言い回しを使いまくって読みにくくなったという感じだ。これは元の文章からして、非常にクセのある文章ではないかと思われる。


 内容的には「ハイチ革命に勝ちたかった白人」の思惑がにじみ出ている。ただこうした行為自体は日本人も「第二次世界大戦に勝利した日本」というif物語が、商業同人問わず作られているから、そのことに関してはとやかく言っても仕方がない。


 文体の癖の強さもあいまって、正直、物語としてはそう面白いものとは思えなかった。だがこの物語の本質から外れた、「色んな最初」をやった吸血鬼の物語というサブカルとしての吸血鬼史という面では、非常に興味を掻き立てられた作品だった。こうした面も意識しつつ読めば、また違った感想が出てくるのではないかと思う。


「吸血鬼ヴァーニー あるいは血の晩餐(抄訳)」(1845~1847)

 「吸血鬼ラスヴァン」発売を知ったとき、楽しみにしていた作品の一つ。吸血鬼ヴァーニーの連載形態ペニー・ドレッドフル*8は簡単にいえば、週刊連載のラノベといった感じのもので、週刊漫画の如く、その場の勢いを重視していた。そのためキン肉マン某少年ジャンプ漫画の如く、設定がとにかくコロコロと変わる。だから近年の吸血鬼の解説本などでは駄作と紹介されることが多い。だがこれは文学としてみるからそういう感想になるのであり、今の週刊漫画的な作品として考えれば、多少のアラなど目をつぶることができる。皆様も多少の矛盾があっても面白い・好きと思うマンガは思い浮かぶことだろう。実際、荒俣宏氏のように、ヴァーニーは面白いと評価する人もいる。それに当時ペニー・ドレッドフルと呼ばれる作品は今の少年ジャンプと同じで、人気がなければたった1か月ほどで打ち切りになるが、人気があれば引き延ばしてでも長期連載させられた。そのような背景のなか吸血鬼ヴァーニーは、当時の出版社の作品の中で、一番人気を博したと言われている。このあたりもいずれは解説する予定。


 この作品は、吸血鬼の歴史的にかなり重要だ。なにせ、今の吸血鬼の特徴的な「鋭い牙」の設定を初めて登場させた吸血鬼作品だからだ。ポリドリの「吸血鬼」のラスヴァン卿は牙はなく、首筋を食いちぎっていたのだが、ここで明確に牙の描写が出てきた。その為、ポリドリ「吸血鬼」とブラム・ストーカーの「ドラキュラ」の橋渡し的役割を担った作品などと評価する人もいる。これを読まないことには、吸血鬼に詳しい人は名乗れないとさえ思っている。何もこれは私個人の意見ではなくて、昔個人掲示板などでも度々そのように言及されてきた。現に、吸血鬼ヴァーニーを取り寄せて読む人は少数ながらいる。これを全文読んだことがある人こそ「真の吸血鬼に詳しい人」だと言えよう。


 この作品は220章ほどもあるため、全訳は今までにされたことがない*9。章を抜粋しての抄訳はあり、一番古い訳は、日夏耿之介が翻訳した第一章。第一章はロバート・フロック「怪奇と幻想1」にも、別の人が翻訳したものが収録されている。あとは、ピーター・ヘイニング編集の「ヴァンパイア・コレクション」に収録されたもので、終盤の三章が翻訳されている。荒俣宏と紀田順一郎による企画「ドラキュラ叢書」の第2期として「吸血鬼ヴァーニー」も予告されていたのだが、第1期があまり売れなかったので計画がとん挫してしまった。あとは藤原編集室氏は国書刊行会時代、吸血鬼ヴァーニーの企画を考えたそうだが、あまりにも無謀なのでやめたという。もし売るとなれば数万円となり、そんなもの誰が買うのかと考えたら、企画にできなかったそうだ。


参考
内容見本でみる国書刊行会3
ドラキュラ叢書
吸血鬼ヴァーニ―


 今回はこれまで紹介されたことがない章が翻訳された。今回、私が特に興味をもったのは34章だ。ここには先ほども言ったように、「吸血鬼に襲われたら吸血鬼化してしまう」ということが言及されている章だからだ。実は「ダークサイドミステリー」放映後、NHKに「吸血鬼化する描写を初めてやったのが吸血鬼ヴァーニーだと説明していたけど、具体的にはどこにあるのか教えて欲しい」と聞いたとき、NHKが教えてくれたのがこの34章だった。自分で翻訳したときは訳に自身がなかったが、今回おおよそ間違ってなかったと確信できたのが何よりもうれしかった。


 その吸血鬼ヴァーニーにおける、普通の人間から吸血鬼化する条件は、「一度や二度の襲撃では吸血鬼化することはない、頻繁に繰り返され、襲われた人間の声明が吸血鬼による襲撃を直接の原因として終焉を迎えることが条件」とされていた。そして月の光を浴びたとき、吸血鬼の仲間になるともあった。「人間が吸血鬼に襲われて吸血鬼化する」という設定は、黒人吸血鬼が最初であったが、こうした設定が吸血鬼ドラキュラ以前にもあったということが、なんとも興味深い。


 この章以外にも、面白い部分だけピックアップして翻訳されている。残念ながらどの章も、展開が気になるところで終わっている。吸血鬼ヴァーニーがペニー・ドレッドフルで一番人気を博したというのも頷ける話だ。そして今回一番驚いたことは、有志により吸血鬼ヴァーニー全訳化が計画されているという告知があったことだ。2007年ごろだったと思うが、個人でサイトを立ち上げ、翻訳者を募って全訳化を試みた人がいた。その時の掲示板のやり取りをみると、すでに暗雲が立ち込めていたことを覚えている。ヴァーニーの全訳化なんて無理だろうと思っていたが、まさか全訳化プロジェクトが始動していたとは。このことが、今回吸血鬼ラスヴァンを購入して一番嬉しかったことだ。ほんと、これさえを読めば「吸血鬼の歴史を一通り学んだ人」を堂々と名乗れることができる。藤原編集室さんは価格面断念したが、今なら電子書籍という方法がとれる。それにかなり進捗しているからこそ、全訳化のことを言及したと思われる。これはかなり期待できるだろう。非常に待ち遠しい。


ウィリアム・ギルバート「ガードナル最後の領主」(1867)

 占星術師インノミナートシリーズのひとつで、心霊探偵ものだという。有名な「吸血鬼カーミラ」(1872)よりも前に出てきた女吸血鬼の物語。今まで海外のサイトや本を大分見てきたという自負はあるが、この作品を言及したものは今までに見たことがなく、今回初めて知った。


 解説によると、ホレス・ウォルポールの「オトラント城奇譚」の反復の作品とあった。正直感想が出てくるほどでの内容ではなかった。ただ、最後のオチは笑った。いや、オチのつもりはないだろうが、それでも笑ってしまった。作中に出てくる兄はかなりクズな領主であり、その弟は真面目な奴かと思っていたが、実は最後の最期で弟は兄以上にクズな奴であることが分かり、因果応報な末路を遂げていた。弟クズすぎぃ!と思わず心で突っ込んだ。


イライザ・リン・リントン「カバネル夫人の末路」(1873)

 これも初めて知った作品。女吸血鬼の物語……いや、周囲が勝手に女吸血鬼だと思った作品で、この作品の本質は集団ヒステリーを描きたかったのだろうと思う。題材は良かったと思うのだが、感想としてはいまいちという評価になる。というのも、女吸血鬼と思われた女性が、吸血行為を匂わせる行動をするのだが、その行動が不自然に見えて、無理やり感が出たという印象がぬぐえないからだ。


いや、なんで血を吸うと思われるようなことせなあかんかったの?
それ必要やった?
そんなことするから吸血鬼に思われるんやで。

と、思わず関西弁でツッコんでしまうぐらい、不可解な行動としか思えなかった。もちろん、ここは現代の価値観で見てはならず、当時の背景ならおかしくはないのかもしれないが、それにしたって展開に無理があるのでは、という感想が出てきてしまう。


フィル・ロビンソン「食人樹」(1881)

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 「吸血鬼ラスヴァン」の発売を知ったとき、収録される作品の予想を立てたが、これは個人的には大穴どころか予想さえしてなかった作品だ。この作品はマシュー・バンソン「吸血鬼の事典」「人食いの木」というタイトルで紹介されており、上記の「ドラキュラ以前の吸血鬼小説はこれだけある」でも取り上げていたため、ある程度概要を知っていたからこそ、予想すらしていなかった。ましてや収録されるという発表の数日前、Twitterで「この作品は吸血鬼作品とはいえないんじゃないか」と言った矢先のことだったから、なおのことだった。


上記のツイートの数日後、下のようにお知らせがきて驚いた次第


 もとは”Under the Punkah”「扇の下」という本に収録された短篇で、ロビンソンの叔父の体験をもとにして作ったものだという。背景として1874年から始まったアフリカ地方の「人食いの木」騒動が発端。詳しくはwikipedia記事などを見て貰いたいが、人食いの木騒動は最終的に1955年に「すべて捏造」だと結論付けられて収束した。今回のフィル・ロビンソンのものは、そんな騒動の最中に作られた作品だ。


 内容はタイトルの如く「人の血を吸う木」の物語。人間じゃないものが人の血を吸う物語としては最初期のものなので、そうした観点からみると貴重な作品であるということは理解している。だが率直な感想として、当時の「食人の木」騒動を知っている当時の人が、オカルト的・都市伝説的に楽しむものとして読むものだと思った。というか私も「血を吸う物語」としてでなく、「都市伝説」という観点から読んでしまった。「食人の木」なんて存在しないと結論付けられてしまった現代では、どうして面白さは損なわれてしまうのではないかと思ってならない。それに個人的には、この作品を吸血鬼作品というのは、やはり抵抗がある。これを収録するぐらいなら、もっと他に収録すべき作品はあっただろうにとさえ思う。


 最後に。上記の私のツイッターにおいて、フィル・ロビンソンの"The Last of the Vampires"という作品があることを知ったとツイートした。ロビンソンの作品で(個人的には)吸血鬼作品と言い難い「食人の木」がバンソンの「吸血鬼の事典」で紹介され、なぜこちらが紹介されなかったのかと疑問に思ってのが上記のツイート。そしたら数日後、「食人の木」の収録のお知らせと共に、"The Last of the Vampires"も別個で邦訳されるとのアナウンスがあった。上にあるように、こちらはコウモリ型吸血生物であるらしい。英語が読めて気になる方は、キンドル版を見てはいかがでしょうか。

Amazon | The Last of the Vampires: (Cryptofiction Classics - Weird Tales of Strange Creatures) | Robinson, Phil | Occult


アン・クロフォード(フォン・ラーベ男爵夫人)「カンパーニャの怪」(1886)

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 この作品も「黒人吸血鬼」とともにサザーランドさんの解説記事(上記2つ)で2020年に知った作品で、私の記事では「カンパーニャの謎」というタイトルで紹介した。弟にフランシス・マリオン・クロフォードがおり、彼が1905年に発表した吸血鬼作品"For the Blood Is the Life" は、平井呈一訳「血こそ命なれば」、深町真理子訳「血は命の水だから」として日本語訳にされている。荒俣宏氏は、「月光の夜半に読むべき名作」と評価していたが、私にはあわなかった。最後が何とも煮え切らない話であり、そういうモヤモヤする終わり方は私の好みではないからだ。とまれ、今回は姉の方が残した吸血鬼作品となる。Von Degenというドイツ風の偽名を使って発表した。


 これは有名な女吸血鬼であるレ・ファニュの「吸血鬼カーミラ(1874)」以後に作られた女吸血鬼の物語ということは、サザーランドさんの記事で知っていたのだが、いかんせん無料で読めるものがなく、英語原著をkindleで有料で買うほどでもないよなぁと思っていた作品。今回邦訳されて非常に嬉しかった作品の一つ。


 間近に発表された女吸血鬼の作品である「吸血鬼カーミラ」は、レズビアンな物語であったが、こちらは男を誘惑する女吸血鬼という、正統派女吸血鬼とも言うべき作品だった。というか解説にもあるように、典型的なファム・ファタール(宿命の女)ものだった。ほかにも正統派ホラーという感じで、むしろ映画にすれば映えるのではないかと思ったぐらいだ。


 印象的だったのは、鶴嘴の柄をわざわざ削って吸血鬼退治用の杭を作ったことには笑った。いや、まあ吸血鬼退治には杭ってのは有名だけど、かといってわざわざ作らんでも鶴嘴で心臓刺したらええやん!っと思わず突っ込んだ。ちなみに吸血鬼退治の木の材質は、国によってまちまち。というかその国によく生えてる木を用いており、その理由付けも様々。鉄の釘を熱して代用する地域もある。吸血鬼の本場ともいえるルーマニアの民間伝承では、吸血鬼対策として鶴嘴を埋めるそうな。一口に「杭で吸血鬼を退治する」といっても、地域によってまるで考え方が違うのが非常に面白い。詳しくは、最近新装版がでたポール・バーバー「ヴァンパイアと屍体」に詳しく書かれている。


メアリ・エリザベス・ブラッドン「善良なるデュケイン老嬢」(1896)

 この感想には、物語の根幹になるネタバレをしなければならないので、気になる方はご注意を。

 サスペンスみたいな展開で面白い。醜い老婆は吸血鬼か!?と思わせておいて、実は延命治療を受けている老婆だった、という内容。そしてその延命方法とは輸血だ。この作品より1年後、ブラム・ストーカーにより「吸血鬼ドラキュラ」が刊行されるが、そのドラキュラにおいても輸血シーンがある。だが両者ともに、血を抜き取ったあとそのまま何も考えずに輸血するという、現代ではありえないシーンとなっている。これはまだ血液型の存在が知られてなかったので仕方がない。血液型の存在は、今でこそ小学校で習い、異なる血液型を混ぜると血液は凝固するということは広く知られている。そんな血液型は、オーストリアのカール・ランドシュタイナーによって、1900年(明治33年)になって初めてその存在が明らかとなった。それが発表されるのは、その1年後のことだ。


 「善良なるデュケイン老嬢」は、吸血鬼ドラキュラに先駆けて輸血描写を取り入れた作品だ。ただドラキュラの場合は、ドラキュラに血を吸われたルーシー・ウェステンラを助けることが目的であり、その輸血という行為も、蓄音機などと同じく、近未来的雰囲気を出すが為の舞台装置的な意味合いが強い。それに対しこの作品の場合、解説によれば、血液の循環が証し立てられてた17世紀、まだ古代ギリシア・ローマ以来の体液観を受け継いで、血液ことそが持ち主の生気と性質を保持するとされていたころの輸血思想から来ているという。実際、動物から人への輸血実験は繰り返され、ついには阿鼻叫喚となったため、17世紀には事実上禁止となった。1818年に再開されるが、やはりこれまで培った発想はふるい落とせるものでなく、「善良なるデュケイン老嬢」にはそうした思想史が織り込まれているという。一方、ドラキュラの輸血シーンだが、ブラムの慧眼であり目の付け所は悪くなかったと、何かの解説でみたことがある。このように一口に吸血鬼作品の輸血といっても、シチュエーションや思想がまるで違っているというあたりが何とも面白い。ちなみにこの時代の輸血は生理食塩水が主だったらしく、アメリカ陸軍でも緊急時の輸血手段として未だに残っていると、どこかで聞いたことがある。


 内容だが、最後のオチから言えば実は吸血鬼とは言えない作品。ただ物語はサスペンス風であり、それはそれで楽しめるものだった。手塚治虫のブラックジャックに、延命治療を受ける老婆と医師の物語があり、あちらは老婆が長生きし過ぎたために死にたがっていたが、こちらは老婆も医師も邪悪な存在だ。主人公ベラは頭がお花畑過ぎるというか、人が良すぎて途中イライラしたけど、「ベラにとってはデュケイン老嬢はまさしく善良であった」という、物語の根幹になるオチはよかった。


 保守的な人には「こんなの吸血鬼じゃない!」って言われそうな作品で、私も「吸血鬼か?」と問われれば、否定的な意見がでてしまう。だが展開は面白く、物語としては純粋に楽しんで読むことができた。


ジョージ・シルヴェスター・ヴィエレック「魔王の館」(1907)

 こちらも、物語の根幹にかかわるネタバレしていくので注意。 

 本アンソロジーは、1897年の「吸血鬼ドラキュラ」以前の吸血鬼小説を集めて紹介するというコンセプトであるが、唯一それを破り、ドラキュラ発売以降に刊行された吸血鬼作品。サイキック・ヴァンパイアの嚆矢と言われて読み継がれており、転換期における意義からして外せない重要作として今作を収録したとあった。
あまり大きな声で言えないが、他の作品は今見るには退屈なものばかりだから、物語として面白い今作を入れたんじゃないかと思ってしまった。


 トリを務めるだけあって、これまでの作品よりも読み応えがあり、また面白い。設定が非常に面白く、今でも通じる面白さ。ただ問題は、血を吸う描写が一切ないこと!
 いや確かに作中のレジナルド・クラークは吸血鬼呼ばわりされているし、本作はサイキック・ヴァンパイア作品だと言われている。マシュー・バンソン「吸血鬼の事典」などで、心霊的吸血鬼というのもあって、海外の人が「血」以外にも「生気」「精気」を吸引する存在も吸血鬼と呼んでいることは知識として知っている。ただ知っていることと納得することは別だ。例えばギィ・ド・モーパッサンの「オルラ」、これは「吸血鬼の事典」や海外のサイトで「吸血鬼作品」「心霊的吸血鬼」であるという解説を目にしたとき、私自身は、理屈は理解できたが納得はできないでいた。なにせ血は吸わず、精気しか吸ってないからだ(しかも妄想というか、唯の幻覚の可能性すらある)。むしろ「オルラは吸血鬼じゃない!だって血を吸ってないじゃないか!」と批判している海外の人のブログを見つけたときは、私の感覚は間違ってなかった!と安心したぐらいだ。今回の「魔王の館」は生気ではなく、能力を吸うという存在であるが、心霊的吸血鬼に懐疑的な私からすれば、今作も吸血鬼作品かどうかと問われれば、私は「うーん……」と唸るしかない。


 まあこれは吸血鬼作品だとするのが一般的なようだし、作中でも能力を吸い取るヴァンパイアという扱いをされているから、私個人の主張はおいておこう。内容面に目を向けると、この「人の特質を自動的に吸収してしまう能力」、言い換えれば「人から精神や特技を自動的に吸収する能力」という設定自体は非常に面白かった。もっと単純に言えば「他人から特技・才能・アイデアを盗み取ってしまう」という設定は、オタク心を超くすぐる設定だろう。しかも「自分が不利になるようなものは自動的に拒絶して吸収しない」という、これでもかと言うぐらいのチート性能だ。どういうことか説明すると、クラークという吸血鬼は、人から才能やアイデアを盗み取る。少年時代は仲良くなった友人から数学能力を奪った。結果、その友人は簡単な暗誦すらできなくなるほど出来の悪い生徒になった。ミュージックホールでは、歌っている途中の歌姫から歌唱能力を奪った。結果歌姫は、歌ってる途中に上手く歌うことができず、観客の容赦ない視線にさらされてしまうこととなった。


 だがこのクラークの真に恐ろしいところは、奪ったアイデアを自分で昇華させよりよい作品を作るというところだろう。大デュマは自身に剽窃疑惑が出たとき、「盗作したのは認めるが、俺の方が面白い」といった逸話があるとされるが、まさにそれを体現した作品だ。


 この「魔王の館」という作品は、今だからこそ恐怖を与える作品だと言える。近年、ネットの普及によりアマチュアで創作活動する人が増えた。絵なら「pixiv」、文章なら「小説家になろう」がある。そして今ではYoutuberになる人が世界中であふれるなど、アマチュアが作品を発表する場はごまんとある。もし自分のアイデアが知らぬ間に盗まれて、しかもそれが自分が考えたよりも非常に面白かったとすれば……そして自分は才能を絞り取られて二度と面白い作品が作れなくなる……創作活動をしたことがある人なら、この恐怖は理解できるはず。この「人が死なないのに恐ろしい物語」という発想は、ただただ凄いと思った。クラークは人は殺していない。ただ才能とアイデアを奪うだけ。ただ、モラルがないだけ(いわゆるモラハラ)。正直、現代を舞台にリライトすれば、かなり面白くなるんじゃないかと思う。SNSを利用して近づき、虎視眈々とアイデアと才能を盗み取ろうとする……もしかしら私たちの周りにも実在しているとすれば……と考えると、非常に恐ろしい。アンソロジーの最後を飾るにふさわしい作品だった。血は吸ってないけど……



 以上が感想となります。こうしてみると、前から知ってる作品、とくにニコニコ動画やこのブログで解説記事を作るために調べた作品ほど、詳しく述べてしまった。ある程度頭に入ってるからこそ、どうしても気になることが沢山でてきた。逆に初めて知った作品は、感想が簡単になっていることが丸わかりになってしまった。もう少し何か述べていきたかったが、感想が特に思い浮かばなかったのも事実。こうしてみると、物語の感想というより「いかにして今のよく知られる吸血鬼像が作られていった」という部分にばかり着目している、そして私が「怪奇幻想文学」というものに、普段慣れ親しんでいないことが浮き彫りにもなった。でもあくまで私の関心事は「吸血鬼の形成の歴史」であるから、どうかご容赦願いたい。


 今回はドラキュラ以前に刊行された英米の文学を集めたものだが、吸血鬼の形成の歴史を見ると、ドイツやフランスなどの作品も当然無視することはできない。次はドイツ、フランスに関する「ドラキュラ以前の吸血鬼小説」というものが刊行されないかなと願う次第。とまれ、日本ではこれまで着目されることのなかった「ドラキュラ以前の吸血鬼小説」を集めた本アンソロジーは、かなり貴重なもの。吸血鬼という存在が好きな方、興味を持っている方は、この本を読むことは必須と言っても過言ではありません。ぜひとも手に取ってみて下さい。今年2022年は吸血鬼イヤーと呼べる年で、5月にはポール・バーバー「ヴァンパイアと屍体」の新装版と、今回の「吸血鬼ラスヴァン」が、6月末には東雅夫編纂「吸血鬼文学名作選」が発売された。さらに11月には荒俣宏と紀田順一郎により「怪奇幻想の文学」の吸血鬼編が刊行予定だ。荒俣&紀田の本も刊行され次第、感想記事を上げる予定だ。


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*1:このバイソンの推敲をしないことを批判したのが、小泉八雲/ラフカディオ・ハーンだで、「バイロンは自分の言葉を推敲しなかった詩人」だと評価した。八雲自身、「文章は9回書き直さないとまともにならない」と言ったそうだから、自分の美学に反するバイロンには、どうしても厳しくなるようだ。

*2:前回の記事でも述べたように、後の南條による再翻訳は、二度とも単に「トルコ兵」としていた。異国情緒感をまるで感じさせないこの翻訳に不満があるのは、前回でも述べた通り。

*3:それに私自身、まだ頭の中で整理しきれていない。

*4:アイアンシー表記は確かに何かの吸血鬼解説本で見た記憶があるが、思い出せない。

*5:森口大地「ヴァンパイアの定義にまつわる問題の解決の試み――1732年の事件と文学への進出という観点から―― 」:KGゲルマニスティク23・24・25合併号(2022/2/15)

*6:ちなみに森口は吸血鬼と言う単語は色んな理由から使わない。詳しく知りたい方は、KGゲルマにティクスを参照のこと。

*7:Bray, Katie (2015). “"A Climate . . . More Prolific . . . in Sorcery": The Black Vampyre and the Hemispheric Gothic”. American Literature 87: 2. doi:10.1215/00029831-2865163.
英語wikiepdia"The Vampyre"より孫引き

*8:ペニー・ブラッドなど他にも呼び方はいくつもある。近年の研究でいけば吸血鬼ヴァーニーは、ペニー・ブラッドに分類されるらしい。このあたりのことはいずれ紹介する予定。

*9:連載当時、章の付けたがとにかく滅茶苦茶だった。単行本化されたとき修正されたが、逆に新たに間違えられたりした。