【目 次】
〇『吸血鬼』という和製漢語を生み出したのは南方熊楠…という説が覆った!
①英語ヴァンパイアの最初の翻訳は「吸血鬼」ではなくて『蛭』だった!
②『吸血鬼』は和製漢語で中国へ伝来した!
③吸血鬼は『吸血魔』とも呼ばれていた!日本の『鬼』とは関係がない?
④この記事
⑤芥川龍之介に英語を教えた先生は、吸血鬼にも詳しかった!?
⑥ヴァンパイアは吸血鬼以外にも『落とし穴』という意味があった!?
番外編:「怪物」が『フランケンシュタイン』に変わったのは何時?
⑦ "vampire"の訳語の変異まとめ【最終記事】
⑧日本における吸血鬼ヴィジュアルイメージはどのように定着していったのか:当ブログ記事を参考にした卒業論文が作られました
前回の記事 からの続きです。前回の記事を見たという前提で話が進みます。今回も烏山奏春氏がドロップボックスで公開した「vampire訳一覧.pdf」から解説していきますので、併せて奏春氏のPDFの方もご覧ください。またこの記事は、動画「ゆっくりと学ぶ吸血鬼第13話」で先行して紹介した内容となります。動画では一部誤った解説をしているので、それらの訂正もしたものとなります。
今回の記事はかなり長くなります。ご了承下さい。
※奏春氏のドロップボックスの現在の公開先はこちら(2019年4月18日)
【前 提】
Vampaire(ヴァンパイア)=英語で吸血鬼の意味
ドラキュラ=ブラム・ストーカーの小説「吸血鬼ドラキュラ」に登場する吸血鬼。 つまりドラキュラ伯爵という個人を表し、決して吸血鬼全体を示す一般名詞でない。ここでは混同を避けるために厳密に使い分ける。
前回の記事と重複解説となるが、改めて解説しておこう。1930年「モダン辞典」には「吸血魔の意から妖婦、妖婦役を云ふ。略して「ヴァンプ」と云ふ。」とある。ここで気になったのが、「妖婦」という意味を持たせていること。これは同じ1930年の「英語から生れた現代語の辞典」でも次のようにある。
吸血鬼。他人の膏血を絞るもの。毒婦の意にも用ふ。あの女優はヴァンパイア役が十八番だ。
この妖婦や毒婦の意味で紹介している事典の初出は、1925年の「英和辞典 発音引」のようである。そこでは「吸血鬼,妖婦,男を弄んで金銭を捲きあげる女」とある。
そしてさらに気になったのが1935年の「万国新語大辞典」。この事典には「あの女優はヴァンパイア役が十八番だ。ヴァンプ参照」とある。そして「ヴァンプ」の項目にはさらに目を引くことが書いてあった。
ヴァンパイアの略。尚ヴァンプ女優と云へば毒婦役を得意とする女優である。姐御や女自浪に扮してとても凄い所を見せる、原駒子や鈴木澄子あたりが此れである。
原駒子と鈴木澄子は主に時代劇で活躍した女優で、wikipediaの解説によると共に毒婦役が得意だったそうだ。特定の女優を例として取り上げているのが、なんとも珍しくて目を引いた。このように戦前の1925年から1935年の英和辞典ではどうも、ヴァンパイア:吸血鬼といえば『女』である、という認識が一般的であったのではなかろうかという仮説が出てくる。事典以外でもあの寺田寅彦の随筆「コーヒー哲学序説(1933)」では、「吸血鬼の粉黛の香もなく(以下略)」という一文が出てくる。
粉黛とは白粉、つまり化粧のこと、また美人も指す言葉。ということで寺田寅彦も1933年に、吸血鬼を女性の意味で使っていた。以上からこの仮説が少なくとも荒唐無稽な論でないことは分かって頂けたかと思う。
現在の日本において、有名な「女吸血鬼」を挙げろと言われれば、1872年のシェリダン・レ・ファニュの小説「吸血鬼カーミラ」が真っ先に思い浮かぶだろう。小説「吸血鬼ドラキュラ」の作者・ブラム・ストーカーは、同郷で大学も先輩であるレ・ファニュのこの作品を読んで、吸血鬼ドラキュラの執筆を思い至ったことで有名だ。吸血鬼カーミラを読んだことはなくても、「カーミラ」という名前はゲームや漫画などのいろんな創作で用いられているから、「カーミラ」の名前だけはどこかで聞いたことがある人が大半だと思われる。
そんな女吸血鬼の代名詞ともいえる「吸血鬼カーミラ」であるが、これが最初の女吸血鬼の作品ではない。1872年のカーミラ以前にも、ゲーテの「コリントの花嫁(1797年)」、ロバート・サウジーの「破壊者タラバ(1800年)」(こちらも参照)、E.T.A.ホフマンの「ゼラピオン同盟委員」に収録された「吸血鬼の女(1821年)」、エルンスト・ラウパッハの「死者を起こすことなかれ(1823年)」※1、テオフィル・ゴーティエの「死女の恋:クラリモンド(1836年)」、シャルル・ボードレールの「悪の華」に収録された「吸血鬼の変身(1857年)」のように、女吸血鬼を扱った作品はいくらでも確認できる。そして今挙げた作品はどれも当時話題となった作品ばかり。「死者を起こすことなかれ」に登場する女吸血鬼ブルンヒルダは血に飢えており、死に際に呪詛を振りまく様は正に「妖女」というべき女吸血鬼である。「死女の恋」に登場するクラリモンドは男の運命を狂わす女:ファム・ファタールを生み出した最初の作品の一つであるとされている。ボードレールの「吸血鬼の変身」はエロい女吸血鬼を描いた作品で、わいせつ物扱いとなり後の版では削除されてしまったほどだ。吸血鬼カーミラはいわゆるレズビアンな吸血鬼として知られているが、カーミラ以前の女吸血鬼作品は、カーミラよりもある意味妖艶、もしくはおぞましい妖婦というべき作品であった。
※1 これまではルートヴィヒ・ティーク作「死者よ目覚めるなかれ」として紹介されいたがこれは誤りで、本当の作者はラウパッハであることが判明した。詳しくはこちらの記事参照。
戦前の日本の辞典類は、これらの作品の女吸血鬼たちを知っていて、「ヴァンプとは妖婦の意」としたのだろうか。それは当然、調べてみても分からなかった。そして一旦調査が行き詰ったときに、そういえば1935年の「万国新語大辞典」の記述と似たような記述を種村季弘の「吸血鬼幻想(1983年)」で見たことがあるようなと、ふと思い出した。そして調査をしてみると、「吸血鬼幻想」の「吸血鬼の系譜学」の章に確かに似た記述を発見した。
Vmapir(ヴァンピール)※2とい言葉は、その後19世紀の博物学者たちによって「吸血蝙蝠」を指す用語として転用されたが。20世紀に入るとさらにもう一度転用されて「銀幕の宿命の女」※3たる妖婦(ヴァンプ)を意味することになる。J・Jポオヴェール版の「セクソロジー辞典」の妖婦の項を引くと、銀幕においてはじめて妖婦の名をたてまつられた女優はテダ・バラであったという。
種村季弘「吸血鬼幻想」:河出文庫/1983 P52より
※2 Vampir:ヴァンピール スラブ語表記。英語と違って最後に”e”が付かない。
※3 銀幕とは映画のこと。宿命の女はファム・ファタールとも呼ばれる。
ファム・ファタールについては、後程詳しく解説する。
ヴァンパイアの略。尚ヴァンプ女優と云へば毒婦役を得意とする女優である。姐御や女自浪に扮してとても凄い所を見せる、 原駒子や 鈴木澄子あたりが此れである。
1935年の「万国新語大辞典」より
1935年の「万国新語大辞典」ではヴァンプ女優の例として原駒子と鈴木澄子を例として取り上げていた。一方「セクソロジー辞典」では、映画において初めて妖婦:ヴァンプの名を授かったのはテダ・バラであると紹介している。特定の女優を名指ししているあたりが似通っていると感じた。もしかしたら日本の辞典類は「テダ・バラ」なる女優の例を知って、日本の原駒子と鈴木澄子を取り上げた可能性があるのではないか。種村季弘が参照したセクソロジー辞典は、巻末の参考文献一覧を見るに1962年刊行のもの。だが1935年の万国新語大辞典以前の海外の辞典にも書いてありそうだ。この時点でここまでの自分が調査したことと自分の考えを烏山奏春氏に連絡したところ、すぐさま有力な情報を見つけて下さった。
まずテダ・バラは、日本語ではセダ・バラ表記が一般的で、wikipediaにも記事があった。Wikipediaの解説によると、サイレント映画時代に人気のあった女優で、"The Vamp" というニックネームを持つハリウッド初のセックスシンボル。"The Vamp" は "Vampire" を省略した単語で、男を誘惑し食い物にしようとする女性を指す。このように、ヴァンプと言えばまずセダ・バラの名前が出てくるほど定着していたようだ。
セダ・バラ(1885~1955)
本名:テオドシア・バー・グッドマン
彼女は結婚後はきっぱりと映画界から身を引いた。映画女優としてのイメージとは裏腹に気立てもよく、読書を好み、料理上手であったため、映画関係者が彼女の家に好んで訪れた。
上記はセダ・バラを紹介した動画。「最初のヴァンプ(妖婦)」というタイトルから分かるように、セダ・バラは「ヴァンプ」の名を授かった最初の女優であることが伺える。
そして奏春氏は、青弓社の『妖怪は繁殖する』に収録されている志村三代子の「怪猫映画の系譜学」を見つけて下さった。そこに、セダ・バラがヴァンプと呼ばれる原因の作品が紹介されていた。それによるとセダ・バラは、1915年の映画「愚者ありき」という作品で人気を博したため、セダ・バラはヴァンプの通称が定着した。そして1920年代辺りに新興キネマなど日本の映画会社を通して、日本の映画にもヴァンプの概念が輸入され定着したようだ。新興キネマは正確には1931年に、帝国キネマ演芸を組織変更する形で成立した映画会社である。ちなみに1915年はヴァンパイアの訳語の成立を見るうえで発端となった、それまで有力視されていた、南方熊楠の「祖言について」が発表された年でもある。
セダ・バラのwikipediaの参考文献一覧に、杉野健太郎編『映画とネイション』(映画学叢書[監修加藤幹郎]、ミネルヴァ書房、2010年)に所収されている、山口菜穂子 「『愚者ありき』のトランスアトランティック「ヴァンプ ― アメリカ映画史初期から古典期への過渡期における性の地政学」というものがある。本書は見ていないが、同じ山口女史による論文「トランスアトランティック「ヴァンプ」 ― アメリカ映画黎明期における性の地政学 ―」が、CiNiiに登録されているのを奏春氏が発見した。これを見て初めて知ったのだが、セダ・バラ主演「愚者ありき」という映画は、実は女吸血鬼の映画だった。その内容は以下の通り。
【映画「愚者ありき」 ストーリーの要約】
妻と娘をもつ夫が、セダ・バラが演じる女吸血鬼の虜となり、仕事も放りだして廃人同然になる。妻は一度は離婚を考えるものの、夫が女吸血鬼に捨てられたと知ると、もう一度やり直すことを決意する。ところが夫は女吸血鬼から離れることができず、死んだも同然の状態になってしまう、というところで幕を閉じる。
「愚者ありき」はパブリックドメインであるのでyoutubeで視聴が可能。
上よりも下の動画の方が画質が良い。だがBGMが終始「パッヘルベルのカノン」なのでかなり単調。
この内容を見ると、セダ・バラ演じる女吸血鬼は所謂ファム・ファタール:宿命の女がモチーフとなっていることが伺える。今回の記事の発端がゴーティエ原作、芥川龍之介日本語訳による「死女の恋:クラリモンド」という女吸血鬼の小説であるが、この作品はファム・ファタールのステレオタイプになった作品である※4。ファム・ファタールとは、男にとって運命を一変させる女、または男の人生を破滅させる魔性の女のこと。このセダ・バラの映画もそんなファム・ファタールをモチーフとした作品だった。セダ・バラはエキゾチックな雰囲気を醸し出すために、この映画の為にプロフィールを一から作りだし、ほぼ裸の状態で男の骸に跨るという、性的に強い女というイメージを作り上げた。
※4 「幻想文学大事典」:ジャック・サリバン他/翻訳者多数/国書刊行会/1999年 P183
当時はモラルに反する描写は控えるのがマナーとされていたところに、性的アピールの強い映画が出てきた。こうしてセダ・バラは一躍有名となり、「ザ・ヴァンプ」のニックネームを授かることとなった。ところでさて”vamp”という英単語だが、この言葉自体は映画「愚者ありき」より4年前、1911年のオックスフォード英語辞典(略OED)に、既に見出し語として掲載されている※5。「故意に男性を魅惑し食い物にする女」とある。数年後セダ・バラが演じた女吸血鬼は、まさにvampそのもの。「ザ・ヴァンプ」というニックネームがつくのも当然と言えるだろう。
※5 「トランスアトランティック「ヴァンプ」 ― アメリカ映画黎明期における性の地政学 ―」 P397(1/7)
では、vampという言葉が1911年にOEDに掲載された原因は一体何であるのか。先ほども解説したように「vamp:妖婦」は「vampaire:吸血鬼」から派生した言葉である。つまりセダ・バラ以前にも「吸血鬼といえば女」というイメージがあったのではないかという説が当然出てくる。日本で有名な女吸血鬼といえば 上述したように、1872年のシェリダン・レ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」であろう。
日本ではカーミラぐらいしか知られていないが、これも先ほど上述したように、女吸血鬼作品はカーミラ以前にもあり、その数は決して少なくない。とくにゴーティエの「死女の恋:クラリモンド」はファム・ファタールというジャンルを築き上げた最初の作品の一つとされている。そしてボードレールの「悪の華」に収録され、後にわいせつ罪に問われた1857年の「吸血鬼の転身」という詩、これはマシュー・バンソンの「吸血鬼の事典 P336」を信じるのであれば、宿命の女としてイメージを広め、ブラム・ストーカーの吸血鬼ドラキュラが出てくるまでは、一世を風靡し続けた吸血鬼であったという。
19世紀ではポリドリの小説「吸血鬼」から始まり、J・M・ライマー(若しくはT・P・プレスト)の「吸血鬼ヴァー二ー」など、吸血鬼ドラキュラの系譜となる吸血鬼が流行した一方で、こうしたファム・ファタール:宿命の女な女吸血鬼の作品も一世を風靡していたようだ。
それでは1915年の「愚者ありき」という映画が作られたきっかけはなにか。先ほどの山口女史によると、映画「愚者ありき」は米国最初の吸血鬼映画というわけではなくて、当時米国の映画界でおきた「ヴァンパイア・ブーム」に乗っかってできた作品だという。※6
映画「愚者ありき」より2年前の1913年の「ヴァンパイア」という映画は、エロティックな「ヴァンパイア・ダンス」によって一躍脚光を浴びた。「愚者ありき」は、このような「ヴァンパイア・ブーム」の中で一山あてようと目論んだウィリアム・フォックスによって作られた。そして「愚者ありき」には実は元ネタがあり、1909年にポーター・エマソン・ブラウンがブロードウェイでヒットさせた同名の舞台と小説を原案にして作成されている。そしてそのブラウンの戯曲・小説にも元ネタがあって、それは1897年のイギリスのフィリップ・バーン=ジョーンズが描いた絵画「吸血鬼」と、その従兄弟であるルドヤード・キプリングがその絵から着想を得て作った「吸血鬼」という詩から着想を得て作られたものである。つまり「愚者ありき」の元ネタを辿ると、ジョーンズ&キプリングの絵と詩まで辿ることができる。※6
ちなみに、最古の吸血鬼映画と紹介されることの多い映画「ノスフェラトゥ」だが、こちらは1922年上映である。映画ノスフェラトゥは、ブラム・ストーカー原作「吸血鬼ドラキュラ」を登場させた映画としては、現存している中では最古の映画※7となる。ノスフェラトゥ以前にもドラキュラの系譜でない吸血鬼映画なら、「愚者ありき」のように米国で既にたくさん作られている。
※6 「トランスアトランティック「ヴァンプ」 P397(1/7)~P394(2/7)
※7 題名が「吸血鬼ノスフェラトゥ」で登場する吸血鬼は「オルロック伯爵」となっているが、これはストーカーの妻、フローレンスから映像化の権利の了承が貰えなかった結果である。そのため名前や祖筋を変えた。それでも訴えられてしまうが。詳細はwikipedia記事参照。ブラム・ストーカー原作「ドラキュラ」をモチーフとした映画は、現存していないものも含めれば「吸血鬼ノスフェラトゥ」より1年前の1921年、ハンガリーで「ドラキュラ」という映画が製作されていた記録が残っている。(参考:「血のアラベスク」:須永朝彦/ペヨトル工房/1993年 P164)
上記がフィリップが描いた「吸血鬼」という絵。英語wikipediaのvampire(吸血鬼)の記事でも吸血鬼の絵の代表例として目立つところに掲載されている。フィリップの英wikipedia記事やこのサイトによれば、この絵はフィリップの絵で最も有名なようだ。吸血鬼という題名がなければ到底吸血鬼とは思えないが、題名は間違いなく「吸血鬼」であり、これはファム・ファタール:宿命の女をモチーフとした女吸血鬼である。ちなみに先ほどのサイトによれば、現在この絵は喪失してしまったらしい。
さて1897年イギリスといえば、今では一般的な吸血鬼の代名詞となり、日本では一般名詞と勘違いされるほどにまでに有名となった、ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」が刊行された年でもある。つまり1897年のイギリスでは一般的となった吸血鬼ドラキュラが生まれたのと同年に、もう一方ではファム・ファタールをモチーフとした女吸血鬼の絵が生まれて話題となっていたのだ。しかもストーカーのドラキュラが刊行される数か月も前に(リンク先参考)。先ほど解説したように、ドラキュラまではボードレールの女吸血鬼が一世を風靡していたそうだが、フィリップの絵もそんな風潮の中で生まれた作品なのかもしれない。
さて、デイヴィット・J・スカル著「ハリウッド・ゴシック P54」の解説によると、この絵の女吸血鬼にはモデルがきちんと存在している。それはパトリック・キャンベルという女優で、これが描かれたのはキャンベルとフィリップの関係を取り巻くゴシップに由来するという。どうも夫がいるのにも関わらず、フィリップは彼女に幾度も贈り物をしていたようだ。本国イギリスではこの絵の評価は高かったようだが、アメリカではキャンベルとのスキャンダルを想起させるので、評価が高くなかったとか。(参考サイト1)(参考サイト2)
パトリック・キャンベルと、彼女がモデルとなったバーン・ジョーンズ「吸血鬼」
画像上のキャンベル夫人をもとに、下の吸血鬼という絵が作られた。さてそんなフィリップの絵から着想を得て詩を作ったのが、フィリップの従兄弟のルドヤード・キプリングである。彼の日本語表記は媒体によってまちまちだが、ラドヤード・キップリングの表記で日本語wikipedia記事が存在する。彼はイギリス人初のノーベル文学賞受賞者。そして実は二度ほど来日しており「鎌倉の大仏」という詩を残していたりと、日本ともなにかと縁の深い人物である。彼の名言データベース集なるものも、日本語のサイトで存在している(参考)。そんな彼の詩「吸血鬼」であるが、これも先ほどの「ハリウッドゴシック」に全文公開されている。
ラドヤード・キップリング作 詩「vampire」 1897年作
愚かなる者あり、彼は祈りを唱えた。(しかしあなたや私のように)」
(中略)
愚かなる彼はその女を、わが麗しき君と呼べり、(しかもあなたや私のように!)白く熱い剣のように指すことはない。彼女がわけを知らなかったことを、(彼女が最後までわけを知らなかった以上、)
彼女が理解しなかったことを知るときが近付いている。
デイヴィット・J・スカル著「ハリウッド・ゴシック」P53に全文あり
最初と最後だけ紹介させてもらった。私が分かったことといえば韻詩であるということぐらい。本文中には吸血鬼:ヴァンパイアという文字どころか、血という字さえ見当たらない。題名が吸血鬼となければ吸血鬼要素がまったく見えてこない作品である。ハイウッド・ゴシックにも詳しい解説はないので、この詩の意味が分かるかたはぜひ連絡頂きたい。
以上、2人の作品から、1909年のポーター・エマソン・ブラウンの戯曲と小説の元となり、そのブラウンの作品から1915年、セダ・バラ主演「愚者ありき」という、ファム・ファタールな女吸血鬼の映画が上演された。そしてこの映画は当時としてはかなり過激であったので、セダ・バラは1911年にOEDに掲載された英単語「Vamp:ヴァンプ:妖婦」の名を授かることになる。それが1920年代に新興キネマなどの日本の映画会社を通じてセダ・バラとヴァンプの概念が伝わり、1935年の「万国新語大辞典」において、原駒子と鈴木澄子がヴァンプの例として取り上げられたという流れになる。1931年までは新興キネマは前身の帝国キネマ演芸であったが、両者ともに帝国キネマ演芸に在籍していた。
「万国新語大辞典」より2年前の1933年には、冒頭で紹介したように寺田寅彦が「コーヒー哲学序説」において、吸血鬼の粉黛というように、吸血鬼を女性の意味で使っていることが伺えた。そして前の記事でも紹介したように、1912年(大正元年)の田口桜村『黒手殺人団:探偵小説』には、エリザベート・バートリを模したと思われる人物を「吸血魔物語」として紹介している。1919年の芥川龍之介+谷崎潤一郎、1929年には岡本綺堂によるゴーティエの「クラリモンド:死女の恋」が、刊行されている。もちろん女吸血鬼という言葉が出てくる小説である。このように戦前の日本においては、吸血鬼といえば女というイメージが先行していたのではないかという仮説が出てくるのも、理解いただけたかと思う。
だがこれは特定の辞書と特定の文学作品を見ただけであり、結論を出すことは到底できない。1931年にはあのベラ・ルゴシ主演の「魔人ドラキュラ」が日本でも上映されているし、1年後の1932年には、これも当時有名だった作家・佐藤春夫によってポリドリの「吸血鬼」が翻訳刊行されている。また文学以外にも視野を広げると、怪談レストランシリーズの『紫ババアレストラン』収録「赤マント」に【ゆみちゃんは表は黒いサテン地で、うらが赤だといいました。それじゃ、よけいドラキュラじゃありませんか。】と書かれている。
児童文学作家で各地の民話も集めた松谷みよ子の「現代民話考7」によれば、赤マントのうわさは1936~1937年ごろに確認でき、その正体は吸血鬼であるともいわれていた。昭和11年・1936年となると、魔人ドラキュラがすでに日本で上映された1932年より後である。この「正体は吸血鬼」というのが1936年頃に本当に言われていただろうか。松谷が民話の最終を始めたのは1956年からだそうなので、1936年に本当にそういわれていたのかもう少し検証が必要だろう。
東雅夫編纂「血と薔薇の誘う夜に」(2005年)の巻末解説(P337より)には、次のようにある。
(中略)
右にその一端を示したとおり、昭和初頭、1930年前後の時期に、吸血鬼という言葉は当時の尖端知識人、今日の言葉でいうならサブカルチャーの領域で、一種の流行語と化した観がある。日本的モダニズムの一拠点となった雑誌「新青年」が、(江戸川)乱歩や城昌幸のホームグラウンドともなり、海外吸血鬼小説の翻訳(オーガスト・ダーレス作、妹尾アキ夫(せのお あきお)訳「蝙蝠鐘楼」など)や映画紹介(31年公開のユニヴァーサル映画『魔人ドラキュラ』など)にしばしば誌面を割いているのは、いかにも象徴的と言えよう。
しかしながら、こうした時ならぬ吸血鬼ブームも、30年代末に、横溝正史がブラム・ストーカーの『ドラキュラ』を時代劇仕立ててで翻案した、日本初の長編吸血鬼小説『髑髏検校』(1939)を発表したのを最後に、ふっつりと終焉を迎える。
まだまだ調査は必要だが、少なくとも1930年代の日本は吸血鬼ブームが訪れていたようだ。となると、松谷みよ子が採取した都市伝説「赤マント」において、「その正体は吸血鬼」という噂が1936年~1937年頃にはあったということは何ら不思議はないと言える。こうした吸血鬼ブームの最中であったがために、赤マントの伝説が生まれたのかもしれない。
以上を踏まえて個人的な考えを述べよう。ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」からはじまる「スタンダードな吸血鬼」系統と、ジョーンズ&キップリングの「ファム・ファタールな女吸血鬼」系統が同じ1897年に生まれた。それが米国など経由して「女吸血鬼系統」が先に日本で有名となり、遅れて「スタンダードな吸血鬼像」が日本に伝わったのではないか。そのまま学術的な面では「吸血鬼といえば女」という考えが占め、逆に大衆文化では「吸血鬼といえば男」というイメージがあったのかもしれない。とくに学術面では今なお「吸血鬼は女」というイメージが残っているようだ。goo辞書で検索に出てくる小学館ランダムハウス英和大辞典の第四義と大五義には次のようにある。
※ 2018/10/13現在、検索結果には小学館 プログレッシブ英和中辞典によるものに変更されたが、第三義に「毒婦,妖婦ようふ;毒婦役の女優」とある。
だが戦前の日本人がもつ吸血鬼像というものは、まだまだ結論が出せるものではなく、戦前の軽演劇や芝居など、日本のあらゆる大衆文化の調査を行う必要がある。それどころか新聞雑誌の知識欄、ラヂオの講座なんかも調査する必要があるだろう。戦前の吸血鬼文学、吸血鬼映画を解説する書籍はいくつかあれど、吸血鬼関連で漫才・軽演劇の世界にまで踏み込んだ解説書は見たことがない。そもそもそんな資料は存在しているのかすらも怪しい。どちらにせよ、戦前の日本人がもつ吸血鬼像を探るということは、もはや一大研究になるということだけは確かだ。
なにやら煮え切らない結果となってしまい、もやもやしてしまった方には非常に申し訳ないが、これ以上は素人ではどうにもならないので、調査はここまでとしたい。もしこのあたりのことが分かる典拠をご存知な方は、ぜひ私までメールでご一報をお願い申し上げます。
さて今回の記事のきっかけは、吸血鬼という言葉の成立に関してである。それまで有力視されていたのは、文芸評論家の東雅夫先生が紹介していた1915年の南方熊楠による造語説。その説の有力性を高めていたのが、1914年の芥川龍之介のクラリモンドの英訳であり、龍之介はvampireを夜叉と翻訳していた。これは今回の発端となる記事で紹介したように同年1914年には押川春浪がすでに吸血鬼という言葉を使っていたことを烏山頌春氏が発見、これにより南方熊楠による造語説が覆ったことは周知のとおり。実はその後の奏春氏のさらなる調査で、やはり同じく1914年に吸血鬼という言葉を使っていた事例が見つかったのだ。ところがその使った人物が意外な人であり、これを初め知ったときは衝撃的だった。その人物とは、高校時代の芥川龍之介に英語を教えていた先生であったのだ!ということで、次回の記事をお待ちいただきたい。
以下余談。今回紹介したフィリップ・バーン=ジョーンズだが、彼には面白い逸話がまだある。吸血鬼好きにはぜひ知ってほしいので、冗長にはなるがここでぜひ紹介させていただきたい。フィリップ・バーン=ジョーンズは、世界的に有名となったブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』と同じ1897年に、ストーカーより数か月早く、ファム・ファタールな女吸血鬼の絵を描いて一躍有名となった。一見、同じイギリス人が同じ年に吸血鬼を題材にしただけであり、なんら共通点はなさそうに見える。ところが二人はちょっとした関係にあったのだ。実はブラム・ストーカーとフィリップの家族はご近所さん同士であり、家族ぐるみのお付き合いをしていたのだ。※8
この件については、フィリップの父、エドワード・バーン=ジョーンズについてまず説明しなければならない。父エドワードも所謂ラファエル前派に属する有名な画家であり、現代の我が国でも展示会が開かれるほど。さてそのエドワードは、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティに弟子入りしている。ロセッティは当初は詩人としてデビューして、後に画家となった。今では画家としてのほうが有名で、絵画関係の本でも度々名前が出てくるが、ロマン派の詩人として文学関係の書評などにおいても、その名前を確認することができる。そして最初の吸血鬼小説として名高い、吸血鬼ルスヴン卿を生み出した小説「吸血鬼」の作者、ジョン・ポリドリの甥っ子でもある。ポリドリの妹の息子。
ポリドリの吸血鬼に登場するルスヴン卿から、それまで吸血鬼はゾンビ見たいな存在から、夜会服に身をつつむ、冷酷な美男子、美人の血を好む、首筋から血を吸う、吸血鬼は力が強いといった設定が生まれた。そんな最初の吸血鬼小説を書いた人物の甥っ子がロセッティである。そしてロセッティはビュルガーのレノーレという詩を英訳し、若干16歳のデビュー作品として世間を沸かせた。実はこの「レノーレ」という作品はブラム・ストーカーの「ドラキュラ」の冒頭で引用されている作品でもある。ロセッティは他にもドラキュラに絡むエピソードがある。ロセッティの妻エリザベスが死んだとき、詩稿を一緒に墓に入れたのだが、自分の詩の全集を編もうとして詩を取り戻すべく7年後に墓を掘り起こしたら、エリザベスは死蝋化していて美しいままであったが、たちまち腐って崩れ去ったという噂が流れた。そしてそこからストーカーは着想を得て、ドラキュラの作中で印象的な犠牲者であるルーシー・ウェステンラの墓暴きのシーンに繋がったという噂レベルの説があるそうだ。※9
※8 「ハリウッド・ゴシック」 P54
※9 『ドラキュラ 100年の幻想』:平松洋/東京書籍/1998
平松自身も各分野の科学者に怒られるだろうと言っているが多くの学問を行き来した、平松自身による論理の飛翔・飛躍・暴走させてドラキュラを語るものである。こじ付けレベルの論を展開しているので、本書の取り扱いには注意を要する。
さて詩人としても名高いロセッティにエドワード・バーン=ジョーンズは、画家として弟子入りしている。といってもロセッティからはあまり学ばず、独学によるところが大きいようだ。そのエドワードが残したラフスケッチに、こういうものがある。
これは吸血鬼ドラキュラの作者、ブラム・ストーカーの妻・フローレンス・ストーカーを描いたもの※10。実はフローレンスはラファエル前派風の美人と評判であり、ラファエル前派の画家がこぞってモチーフにし、とくにファム・ファタール風の絵が仕上げられたようだ。ジョージ・デュ・モーリアという漫画家は、「これまで自分があった中でも三大美女であった」という感想をもらしている※11。モーリアにはシルヴィアという娘がおり、その子供たちから着想を得て、ジェームス・マシュー・バリーはかの有名な「ピーターパン」を作っている。
上記はウォルター・フレドリック・オズボーンにより1895年に作られたフローレンス・ストーカーの肖像画。イギリスの有名な文豪にオスカー・ワイルドがいるがそのワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」は、このフローレンスの肖像画から影響を受けた受けたとされているようだ※12。
そしてそのオスカー・ワイルドにも実は面白い逸話がある。オスカー・ワイルド自身が、フローレンス・ストーカーの絵を描いていたのだ。
上記がオスカー・ワイルドによって描かれたフローレンス・ストーカー、旧姓フローレンス・アン・レモン・バルコムの肖像画。いや、ただ描いただけではない。実はオスカー・ワイルドは当時16歳のフローレンスと恋に落ち、付き合っていたことがある※13。クリスマスには二人の名前を彫った十字架をプレゼントしていたりするが、のちに二人は分かれることになる。ワイルドは根無し草であったため、安定した生活が見込めるストーカーと結婚したなどと言われている。ワイルドの有名な童話に「幸福な王子」があるが、ワイルドはその「幸福な王子」をフローレンスに送っている。※14
「気に入ってもらえるとうれしい、どれも単純な話だけど…ブラムによろしく」という手紙もつけていたようだ。ちなみにその手紙とそのサイン入りの本は1984年のニューヨークのクリスティーズにおいて、8500ドルで落札されたらしい※15。某所ではホモゲイとしてさんざんいじられることのあるワイルドであるが、フローレンスと付き合っていたことや妻もいることから、ワイルドはゲイではなくて女性も愛するバイセクシュアルであったことが伺える。
話があちこち飛びすぎたのでまとめよう。まず最初の吸血鬼小説を書いたジョン・ポリドリの甥っ子・ロセッティに弟子入りしていたエドワード・バーン=ジョーンズは、ブラム・ストーカーの妻フローレンスの絵を描いていた。その息子のフィリップ・バーン=ジョーンズが、ブラム・ストーカーと同じ1897年に、ファム・ファタールをモチーフとした「吸血鬼」という女吸血鬼の絵を描き、従兄弟のキップリングがその絵から「吸血鬼」という詩を作り出したという流れになる。父ジョーンズは何かとドラキュラとは縁が深い。そしてストーカー家とジョーンズ家は家族で友人ぐるみのお付き合いをしており、そして同年にそれぞれ違う系統の吸血鬼を生み出したのだから面白い。ストーカーはポリドリの吸血鬼の系統に属する吸血鬼ドラキュラを作り上げる。これは今や吸血鬼のスタンダードになり、ドラキュラは吸血鬼を表す一般名詞の意味ですら使われるようになる。一方のジョーンズ&キップリングの吸血鬼はアメリカへと渡り、1900~1915年の間にはファム・ファタールな女吸血鬼映画がたくさん作られ、なかでも1915年の「愚者ありき」では、セダ・バラ演じるエロい女吸血鬼が世間を沸かし、それまでvamp:妖婦の代名詞として名を残すことになった。そのヴァンプの概念が1920年代、新興キネマなどの映画会社を通して伝わり、1930年ごろの英和辞典において、原駒子や鈴木澄子がヴァンプの例として取り上げられるようになった。
このようにこのあたりの人間関係は吸血鬼とはものすごく縁が深く、また非常に面白いエピソードだらけである。1897年には系統の違う吸血鬼が2つ生まれて、女吸血鬼系統が日本ではいち早く有名になったように思われる。紹介する私としては、あれもこれも紹介したくて、逆にどのように紹介すれば端的にわかりやすくなるか悩んだほどだ。
このあたりのエピソードは面白いものが多く、書ききれないので、興味を持ったかたは是非関連書物をお読みいただきたい。ワイルドとフローレンスに関する話題は、「ハリウッド・ゴシック ドラキュラの世紀」:デイヴィット・J・スカル/仁賀克雄/国書刊行会か、「ドラキュラ 完訳詳注版」:新妻昭彦・丹治愛・訳・注釈/水声社/2000年を参照されたし。
※10 「ハリウッド・ゴシック」 P77
※11 同上 P57
※12 同上 P59
※13 同上 P58、「ドラキュラ 完訳詳注版」:新妻昭彦・丹治愛・訳・注釈/水声社/2000年 P531
※14 同上 P66
※15 同上 原註4、デイヴィッド・J・スカルの他の著書でも言及しており、Googleブックスにて閲覧可能。
ここまで長い記事をご覧いただきましてありがとうございました。
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この記事を先行して紹介した動画
この記事は2018年10月13日にブロマガで投稿したものを移転させた記事です。
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