前回の記事で言ったように、拙作『ゆっくりと学ぶ吸血鬼 第12話』で紹介した、ディオダティ荘の怪奇談義をモチーフとした舞台『BLOODY POETRY』を観劇してきました。(劇団:アン・ラト(unrato))
ゆっくりと学ぶ吸血鬼 第12話
この記事は2017年2月19日にブロマガで投稿した記事を移転させた記事です。
下は元記事のアーカイブ。
「ディオダティ荘の怪奇談義」をモチーフとした舞台『BLOODY POETRY(ブラディ・ポエトリー)』を見てきました:ノセールの吸血鬼解説ブロマガ - ブロマガ
「ディオダティ荘の怪奇談義」は何度も解説したように、詩人バイロン卿が「僕たちも一つ、怪奇小説を書こう」と提案したことがきっかけとなり、メアリ・シェリーは怪物「フランケンシュタイン」を、バイロンの侍医であったポリドリはブラム・ストーカーのドラキュラでさえ影響を受けたに過ぎない、最初の吸血鬼小説「吸血鬼」と吸血鬼の始祖ルスヴン卿を生み出しました。
この出来事は吸血鬼を語る上では絶対にかかせず、吸血鬼好きならば常識な出来事です。知らなければ「ああ、吸血鬼ドラキュラも読んでないのに吸血鬼好きを名乗るのか」とニワカ扱い仕方がない出来事です(平井訳「吸血鬼ドラキュラ」に解説あり。長らく平井版しかなかった)
今回の劇はハワード・ブレント脚本、1984年ロンドンで初演されたもので、今回日本では初の翻訳公演となります。このセリフ劇は、英米では幾度となく上演されているそうです。
今年は1818年のフランケンシュタイン出版からちょうど200周年となる節目の年。フランケンシュタインやメアリに関する書籍を発行しようとする動きが国内外であるようです。今回の劇は、ちょうど良い時に上演されたと言っても過言ではないでしょう。
今回はそんな「BLOODY POETRY」の感想を簡単にだけ紹介しようと思います。また吸血鬼解説をしている身でありますから、簡単にですが個人的に気になった点を解説していきます。というか解説主体になります。これは後から伝記なんかを読むと「ああ、そういうことだったのか!」と、私自身が色んな発見をしたので、それを共有したいという思いからです。あとは単純に自分が後からいつでも見れるように、自分の感想の忘備録として残す意味もあります。
当然ですが劇は録音禁止なので、記憶を頼りせざるを得ません。内容のうろ覚え、細かい間違いはご容赦を。あといつものように、解説は常体で書いて行きます。かなりの長文となりますがご容赦願います。
【追記】
この劇、英語wikipediaにて解説記事がありました。
どうも英語圏では有名な劇のようです。
英語wikipediaの『Bloody_Poetry』の記事へ移動
【各配役の雑感】
東京赤坂見附、赤坂グランベルホテル地下にある、赤坂RED/THEATERにて上演された。私が観劇したのは2018年2月17日18時開演のもの。受付を済ませて会場に入るとまず目に入ったのが、公演祝いの花。ポリドリ役の青柳尊哉さん宛ての花に、タレントの柳沢慎吾さんから送られたものがあった。後で知ったのだが、柳沢慎吾さんは別の日に来ていたようだ。これもあとで知ったが、出演者の青柳さんとはウルトラマンで共演していたとか。
そしてあとでツイッターで知ったのだが、あのGLAYのTERUさんも公演祝いの花を送っていた。というかTERUさん、私が見た同じ上演のものを見に来ていた!(ソース:TERU氏のツイッター)
舞台ブラディ・ポエトリー観劇して来ました。
— TERU (@TE_RUR_ET) February 17, 2018
もっと早くに伺って皆さんにもオススメするべきでしたね。
舞台は1816年スイスのレマン湖。
バイロン卿を筆頭とする詩人達による革命と青春の物語。… https://t.co/5xvpIvo2yh
ツイッター見た時はホント驚いた。
中に入り、上演開始までパンフレットを流し読み。そこに書かれていた事実に驚愕した後(後述)、上演開始。舞台には砂が敷き詰められており、終始砂上で演じれれていた。
余談だがディオダティ荘の怪奇談義をモチーフとした映画で有名なのが、鬼才ケン・ラッセル監督の映画「ゴシック」であることは、私の動画を見た人はご存じの通り。
尚、映画ゴシックのパッケージの絵の元ネタは、ヨハン・ハインリヒ・フュースリー(1741~1825)の『夢魔 The Nightmare 』(1781年)という絵が元ネタ。
この絵の作者フュースリーとフランケンシュタインの作者メアリー・シェリーの母・メアリー・ウルストンクラフトはかつて愛人関係にあり、メアリー自身もフュースリーに出会ったことがある。この絵とフランケンシュタインは切っても切れない関係にある。
この映画はフランケンシュタインの作者、メアリ・シェリー視点で描かれたもの。内容は途中からオリジナルのホラー展開になる。だがホラー部分は当時としても怖い物とは思えず、かといって史実に目を向けても、リアル知識が必須となっていることから、歴史モノとしてもホラーモノとしても中途半端になってしまった作品。いや、ある程度のエピソードを知っていれば「にやり」とは出来る作品であるが、彼らのエピソードを知らない人が見れば、訳の分からない映画だと思う。評価の難しい映画なのは間違いない。
さて今回の舞台はそのメアリ・シェリーの愛人であり、後に夫となるパーシー・ビッシュ・シェリーを主人公としていた。
今回の舞台を最後まで見ればわかるが、自由とはなにか、愛とは何か、それを4人の若者に焦点をあてて描きだすというのがテーマであるから、自由恋愛主義を唱えていたパーシーを主軸に備えるのは理に適っていた。ポリドリは途中でいなくなるから主軸にし辛い。かといってバイロンを主人公にしてしまえば、それはバイロンの物語になってしまっていただろう。バイロンの伝記を読めばわかるが、バイロンはもうこれでもかっていうぐらいアクの強い人物である。彼を主軸にしてしまえばバイロンだけが浮きだってしまう。
さて私は舞台なんて普段見ないから、舞台や演技の感想については「すげー!よく台詞覚えられるな!とにかくすげー!」と、小学生どころか幼稚園児並みの感想しか出てこなかった。
あとは「最初のポエムの朗読が中二病っぽく聞こえる!ああ、自分の中にある中二心が再度活性化してくる!」なんて、アホな印象を持ったぐらいだ。
これでは感想にならないからまじめに感想を述べていくと、まず思ったのが内田健司さんが演じるバイロン卿はハマり役であった。実際のバイロンはあんな感じなんだろうと思わせる迫力・魅力に満ち溢れていた!それぐらいハマっていた。
早口で文学や哲学を矢継ぎ早に語っていく様子は、バイロンの頭の回転の良さが出ていた。映画ゴシックのガブリエル・バーン演じるバイロン卿が「静」だとすれば、内田バイロンは「動」であるといえるだろう。実際のバイロンは一時政治家に身を費やしており、処女演説が拍手喝采にまみれた史実があることを考えると、内田さんの矢継ぎ早に喋るバイロンは、本当に頭の回転が速い人物であるというのがにじみ出ていた。実際のバイロンはこんな感じの人物であったんだろうと思わされるぐらいの名演技だった。
ガブリエル・バーンのバイロンも決して悪くはないが、史実では当時バイロンは26歳。ガブリエル・バーンもこの時そこまで年齢は取ってないけど、老け顔故に「落ち着いた壮年男性」という雰囲気が出てしまっている。内田さんはまだ若いから、まだどこか大人になりきれないてないバイロンを表現するのにはうってつけであっただろうと思う。あと何よりバイロンは『事実は小説より奇なり』を体現する、頭のネジが飛びまくった変人だ。内田バイロンは、そんなぶっとんだバイロンが表現されていた。映画ゴシックのバイロンもまともではないが、他の人物が色んな意味でより狂ってるために、相対的にまともに見えてしまっているのも、内田バイロンがバイロンに適役に見えたんだと思う。
内田バイロンで一つ残念だったことが、普通に歩いていたこと。ゆっくりと学ぶ吸血鬼で解説しように、バイロンは生まれつき足が悪くて、生涯に渡って足を引き摺っていた。その反骨心で生きていたこともバイロンの一つの魅力。映画ゴシックでもバイロンの跛足は表現されていた。
だから普通に歩くバイロンには最初は残念に思った。だが、「足を引きずる表現なんてしてたら、劇が間延びしてしまうよなぁ。特に今回はセリフ劇であるから余計に」とも思った。足を引きずってもたもた移動するのは、劇の進行の妨げになるから泣く泣く表現をやめたのかもしれない。
次に印象的だったのが、メアリ・シェリーの血のつながらない妹、蓮城まことさん演じるクレア・クレアモント。クレアがバイロンに捨てられること、お腹を痛めて生んだ子、アレグラ・バイロンはバイロンの身勝手により引き離されたあげく、5歳の時に死んでしまうという今後訪れる悲劇を事前に知っていた。だから、バイロンが自分と結婚してくれると盲信する姿は、もう、痛々しい限りだった。それをまた姉のメアリが、
「バイロンなんて信じるな!(禁断の近親相姦までして愛し、その結果国外追放の憂き目にあうきっかけとなった)バイロンの(腹違いの)姉オーガスタだって、バイロンはその気になれば捨てるのよ(意訳)」
などといって説得するも、クレアが全く聞く耳を持たない。史実のクレアは当時17歳か18歳。そんな夢見る少女の痛々しさがこれでもか、というぐらいに表現されており、見ていて痛々しい限りであった。
そんな百花亜希さん演じるメアリ・シェリーは、喜怒哀楽激しく演じられていた。私はメアリの肖像画や、フランケンシュタインでのまえがき、パーシーが死んでからの慎ましやかに生活をしていたという事実から、メアリはどちらかというと大人しい女性のイメージを持っていた。あので今回のこんなにも怒りまくってるメアリは最初は正直、イメージとは違っていた。だけどよく考えると映画ゴシックのメアリも、バイロンにぶちキレるという怒ってることが結構あった。
改めて思うと、パーシーの妻ハリエットの自殺の訃報がもたらされた件とか、無理して旅させてきた娘クララが死んだあげく「俺は悪くねぇ!悪いのはお前だ!」なんて言われたら、ブチ切れも仕方がない。あのブチキレるシーンは、子を失った母の慟哭というものが現れていて圧巻の一言だった。ちなみに今回ググって分かったのだが、英語wikipediaの記事によると、実際のメアリもウィリアムとクララが立て続けに死んで、メアリは荒れ果てたとあった。(一次史料なども豊富に参照した記事なので、信憑性は高いと思う)なので実際のメアリも、あれぐらいブチ切れていたのかもしれない。
青柳尊哉さん演じるポリドリは気の毒の一言。余談だがファーストネームはジョンなのに、なぜミドルネームのウィリアム・ポリドリにしたのだろうか?元の英語の脚本がそうなっているのだろう。
追記:その後の調査で、英語wikipediaにこの舞台の記事があるのが確認できた。記事を見るとウィリアム・ポリドリとなっているので、元の英語脚本がミドルネームにしたようだ。なぜミドルネームにしたのか気になる。
バイロンにはゴミカスのように扱われ、知り合ったばかりのパーシーにでさえ、人体実験にされる始末。もはやイジメの領域。史実ではディオダティ荘の怪奇談義の後、ポリドリは解雇されてしまう。劇では復讐鬼となって時折ナレーションでバイロンやパーシーの状況を伝えるという役目になっていた。史実のポリドリはイケメンと評価されていたから、青柳さん演じるポリドリもなかなかの男前であったのがよかった。
尚、映画ゴシックのポリドリは途中でスキンヘッドになる。須永朝彦先生は「血のアラベスク」にて、「映画ゴシックのポリドリは、中年のスキンヘッドの同性愛者にされていて気の毒に思われます」だなんて評価していた。だがティモシー・スポールさんは後に、ハリー・ポッターのピーター・ペティグリュー役などを筆頭に映画ゴシックのキャストのなかでは一番有名になる。須永先生も今ならあんな評価はしないだろう。
最後は前島亜美さん演じるパーシーの最初の妻、ハリエット。史実通り、夫の自由恋愛主義にショックを受けて既に狂ってしまったところから登場。入水自殺した後は、時折パーシーを苦しめる幽霊(あるいは幻影)となって出てくる。入水自殺はいいのだが、以降の幻影として出てくるシーンは正直なところ、蛇足に思えた。そう思ったのはハリエットが一方的に喋るだけのシーンが多かったから。パーシーが幻聴を聞いてもっと苦しむシーンがあるのだが、もっとそういう描写があっても良かったと思う。今回の脚本では、今一ハリエットの存在を生かしきれなかったと感じた。ただ、入水自殺前のシーンは、心が壊れるというのは、こういうことなんだろうなぁ、と思わずぞくっとするぐらいの名演技だった。
【観劇中の雑感】
ここからはストーリー展開順に、その場面場面での私の感想を述べていきます。ただ感想にはどうしても実際の史実がどうだったか、ということを知らないと分からないことも多い為、実際はどうであったかの解説も入れていきます。「ゆっくりと学ぶ吸血鬼」で既に解説済みなことも多いですが、見ていない方もいるし忘れた方もいるだろうから、このスタイルで感想を述べていきます。。あと記憶を頼りに書かざるを得ないので、劇の内容がうろ覚えな部分も多々あります。多少の解説のガバガバ具合はどうかご容赦願います。
今回の舞台は、パーシー一行がバイロンを訪ねてディオダティ荘へ向かうところから、パーシーの死までを描いたもの。
史実通り、クレアは国外追放の憂き目にあったバイロンをおっかけてスイスへ赴いていた。そこに父に結婚を反対されたため飛び出してきたメアリと愛人パーシーもついてくる。詩人としては名高いバイロンに会いたいがために、クレアを介してバイロンに会おうとしていた。
そこからなんかんやあって、下手な船漕ぎに悪態をつきながらバイロンが現れる。そこでお互いに文学や思想を語り合う。ここで矢継ぎ早に自分の思想をぶちまけるバイロンには圧巻だった。私は恥ずかしながら文学には疎いので、バイロンの思想や文学感は全く分からなかった。なんか小難しいこといってる…という感想しか出てこなかった。
分かったことはロバート・サウジーやワーズワースの話題についてぐらいか。バイロンの伝記を読んでいたので、ロバート・サウジーとは犬猿の仲であることは知っていた。だがワーズワースまでディスっていたことは初耳だった。同時にワーズワースはあのような作風にせざるを得なかったとパーシーが言って、バイロンも同意していた。バイロンはワーズワースは評価していたようだ。史実では、バイロンが処女詩集を出版したとき、イングリッシュバーズ誌が酷評した、いや度を行き過ぎた個人攻撃であった。それに激怒したのが、普段温厚なワーズワースである。そういった背景もあって、バイロンはワーズワースに一定の評価を下していたのかもしれない。しかしサウジーとワーズワースを勢いよくディスっていくバイロンの姿は圧巻だった。「バイロンは史実通り、サウジーが大っ嫌いだったんだなぁ」と思わず笑ってしまいそうになったぐらいだ。
次はバイロンが悪態をついていた船漕ぎ、つまりポリドリが登場する。舞台では「ポリドーリ」と、終始長音が混じる発音になっていた。もはやイジメな扱いをする傲慢なバイロン、それに乗っかるパーシー。なんやかんやあって言い合ったあと、ポリドリはバイロンに次のように尋ねる。
「あなたは詩を書くことを除いたら、何が取りえがあるんですか?私は詩を書くことはあなたよりもうまくはないですが」
内心かなり怒ってるポリドリは主人のバイロンにぶしつけに聞く。
だがバイロンは次のように答える
「まず第一に、僕はあのドアの鍵穴を銃で打ち抜くことができる。第二に、あの(ライン)河を泳ぐことができる。第三に君をぶちのめすことができる!」
このセリフは「ああ、確かバイロンの伝記に書いてあったはずだ!」と思いだした。そして帰ってから調べると確かにあった。この後ポリドリの独白が始まり、ある出版社に500ポンドで依頼されて、バイロンに黙ってバイロンの行動を記録していっていることなどを告白する(時系列違うかも)
そこからかの有名な一夜「ディオダティ荘の怪奇談義」が始まる。史実ではクレアは文学に興味がなかった(あるいは一人だけ出自が劣るので除け者にされがちだった)ので、参加しなかったそうだが、この舞台では参加していた。映画ゴシックでも参加していた。実際はどうなのか少し気になる。
さて普段から神経過敏で夢想家なパーシーは、怪奇話を聞いて恐怖のあまり、叫んで逃げ出す。この時バイロンが呼んでいた物語は2つ説がある。
① コールリッジの韻詩「クリスタベル」を聞いて発狂、落ち着いた後は気を取り直して今度は「ファンタスマゴリア」を朗読した。
② 最初から「ファンタスマゴリア」を聞いていて発狂、落ち着いた後も「ファンタスマゴリア」を朗読した。
映画ゴシックでは②だったが、今回は①だった。正確には舞台ではファンタスマゴリアの朗読はなかったが。ちなみにポリドリの手記には①とあるので、連中はクリスタベルを読んでいたのが正しいと思っている。パーシーが発狂したあと、ポリドリが状況を観客に向けて解説する。ここも史実通り「パーシーはクリスタベルを聞いて「乳首が目になった女」を思い出して怖くなったとポリドリは語る。この「乳首が目になった女」は映画ゴシックでは表現されており、私の動画「ゆっくりと学ぶ吸血鬼12話」でも映像を紹介させて貰った。
さて発狂したパーシーにバイロンは「アヘンを処方するんだ。そして君は持っているんだろう?あの禁断の秘薬を!」と叫ぶ。この禁断の秘薬、私の動画を見た人ならお分かりだろうが、当時人気だったというアヘンの混合物「ブラック・ドロップ」の事だろう。ブラックドロップってどんなおくすりだったのか非常に気になる。
この後の展開はちょっと思い出せないが、クレアはバイロンは私と結婚してくれる!と夢見がちに語り、それをメアリが「現実を見なさい!あの男は実の姉オーガスタでさえ、その気になれば捨てるのよ!認知なんてしくれるわけないじゃない!」などとやりあう。ここは上記でも言ったように、その後の展開を知っているなだけに、クレアが痛々し過ぎて見れはいられないぐらいだった。
ここで休憩を挟み、第二幕へ。
第二幕は、パーシーの正妻ハリエットが入水自殺するところから始まる。ハリエットはパーシーに捨てられてもはや心が壊れていた。人の心が壊れるっていうのはこういう感じなのか、という迫真の演技だった(小並感)。他の男の子種を宿し、池に入水自殺する。ちなみに動画でも解説したしwikipediaにも書いてあることだが、自由恋愛主義を唱えていたパーシーはメアリを愛したとき、ハリエットにメアリを紹介し「僕はメアリを愛した。だから君は霊の妹になってくれ。そして3人で一緒に暮らそう(真顔)」と提案して、ハリエットは酷く傷ついたとされている。このあたりは劇中では言及されていなかったが、そういった背景があるからこそ、ハリエットはあそこまで壊れてしまった。
場面は変わり、妻ハリエットの入水自殺を知るパーシー。しかもそれは友人に聞いてみたら「ああ、ハリエットなら1ヶ月前に死んだよ」と、如何にも軽いもの。これを聞いたパーシーは、人の死はこんなにも軽いのかと怒る。しかもハリエットとの間の子供はハリエットの親族が引き取る、つまりキリスト教徒にされてしまうから余計にパーシーはいかった。パーシーは無神論者であったからこれが我慢ならなかった。しかも「自分の子供なのに、なんの権利があって俺から子供引き離すんだ!」と怒る始末。ここのパーシーはどこか大人になりきれてないガキのそのものに見えた。ハリエットの親族からすれば、世間から異端の思想をもち、ましてやキリスト教世界において無神論者に育てるという、世間から村八分にされかれないパーシーに、ましてや定住もせず作家としても売れていないパーシーに預けるのは不安であろう。パーシは余りにも自分本位でしか物を考えていないのが浮き彫りであった。史実では「無神論」という理由から、パーシーは親権を得ることはできなかったという。
ここは記憶があやふやで申し訳ないが、これを見たメアリは自分と結婚するように申し出る。だがパーシーは結婚はしたくない。自由恋愛主義がどうとかこうとか述べる。だがメアリは怒って、
「生まれた子の教育を考えると結婚した方がいい!父ゴドウィンからの(金銭的な)支援も期待できない」
「ハリエットとは結婚したじゃない!私たちの子供(ウィリアム)の為にも、結婚して!」
と懇願する。
パーシー「じゃあメアリの父のウィリアム・ゴドウィンに許しを貰おう」
メアリ「お父さん!?あの人が結婚を許すはずがないじゃない!」
とこんな感じだったはず。
ここで思わず「父ゴドウィンに結婚を反対する権利なんてないんだよなぁ…」
と思わず心の中で突っ込んでしまった。
父ウィリアム・ゴドウィンは急進的哲学者。そして、メアリ・シェリーの母、メアリ・ウルストンクラフト(以下、母メアリ)フェミニズムの先駆者である。二人が意気投合した理由は共に「結婚不要論(重要)」を唱えていたこと。宗教権力や国家権力への服従を強要する結婚制度に反対するために結婚ではなくて同棲を選んでいた。だがこの後選んだ行動が良くなかった。
ゴドウィン「結婚制度なんて不要!宗教や国家権力の服従を意味する!」
母メアリ「そうよそうよ!私達は権力に屈指はしないわ!」
支援者「ゴドウィンさんかっけー!支持するよ!」
母メアリ「けど結婚しないとなると今度生まれてくる子、私生児扱いになるわ」
ゴドウィン「私生児だと気の毒だよな…世間の風当たり強いし。よし仕方がない!一つだけ方法がある!」
ゴドウィン&母メアリ「娘の為に、結局結婚しました!」
支援者「ええ…」
参照ソースはクリック先
とまあ結局ゴドウィンは結婚してしまったのである。当然ながらこの行動によりゴドウィンは多くの支援者と友人を失ってしまった。こうしたことがあって生まれた子が後のメアリ・シェリーである。このように妻と娘の為に一度信念を曲げてまで結婚したゴドウィンには、結婚自体を反対する権利なのないのである。
ただ正妻がいるのにさらに別の女と重婚しようとすることに関しては反対しても仕方がないが。だが、実はパーシーに近づいたのはゴドウィンからである。なぜならパーシーは結構な遺産を相続できることが分かっていたので、そのお金を無心するためにゴドウィンから近づいていたりする。うーん、この。
舞台ではハリエットが死んでから1ヶ月後に、パーシーは自殺を知ったということになっていた。ところがパーシーのwikipedia記事によると、ハリエットが死んでから20日後に結婚したということになっている。これが舞台の元の脚本が脚色したのか、それともハリエットの死やパーシー達の結婚に諸説あるのか気になるところ。
そしてパーシーはハリエットとの間の子が、ハリエットの親族に引き取られるのは何の権利があるんだと怒り出す。自分の子供だから自分に権利があるし、自分は無神論者なのに、自分たちの子供がキリスト教徒にされてしまうのは我慢できない言い放つ。このあたりから、パーシーは自分勝手な主張を繰り返す奴だなぁ、という印象を持つようになってきた。耳障りのいいことだけを言っており、また相手の立場も考えていないし聞く耳ももっていない。権利を主張できるのは相手方も同じだし、相手方にも言い分も十分理解できる。このあたりからこの舞台のパーシーは、どこか大人になりきれない人物でだなという印象をもった。
史実では結局、パーシがー無神論者であるという理由から、ハリエットとの間の子の親権は獲得できなかった。
場面変わって、バイロンはヴェネチアへ移住。そして案の定結婚してくれず悲観するクレア。それどころか生まれた娘アレグラを取られてしまい、悲しみにくれていた。時系列は覚えてないが、このあたりでバイロンを貶めようとするために、ポリドリもイタリアへ渡航。色んな醜聞を集めてはあることないこと吹聴していったようだ(ここも記憶曖昧)。
史実では、バイロンより先にミラノに移り住んでいた。そこのオペラ座で、忌々しいオーストリアの士官(当時のイタリアはオーストリアの隷属国)が脱帽を拒否したため即座に喧嘩を売った。そしてあとから来たバイロンの口添えで営倉から釈放されるが、フィレンツェからは追放されたことになっている。そしてミラノにはフランス人作家のスタンダールがいたのだが、彼は自身の著書において、ポリドリに関してあることないことを書きまくり、それはもはや誹謗中傷、名誉棄損の類であったそうだ。嘘の中に真実を紛れ込ませるというのが、実にいやらしい。この劇でのポリドリはバイロンの醜聞を集めていたようなので(うろ覚え)、このスタンダールの著書のエピソードが元になってるのかもしれない。
さてパーシーはクレアの為にバイロンからアレグラを取り戻すべく、イタリアへ赴くことにする。このときメアリとの間に生まれたばかりの子、クララも連れて行くことにする。クララの体調が悪いにも関わらず。
バイロンが間借りしている屋敷にいくと、滅茶苦茶ブチギレてヒステリックに叫ぶ女性の叫び声が木霊する。舞台中に彼女の説明はなかったので、彼女が何者で、どうしてそこまでブチ切れてるのか非常に気になった。家に帰ってからバイロンのwikipediaを読んでみたところ、あのブチギレ女は反物商の妻マリアンナ・セガティか、農夫の娘、後にパン屋の結婚することになるマルガリータ・コーニのどちらかのようだ。バイロンの伝記「永遠の巡礼詩人バイロン」を見ると、両者ともヴェネチアの女性らしく血の気が多く、気性の激しい性格だったようだ。そして時系列から考えると、舞台でのあのブチギレ女はどうやらマルガリータ・コーニのようだ。しばしばバイロンと言い争いをしては、バイロンは自分のゴンドラで過ごすことが多かったという。たしか舞台でもゴンドラに逃げてきたバイロンとパーシーが出会ったはずだから、まずマルガリータで間違いないと思う。
ちなみに史実ではバイロンがマルガリータに家から出ていくように言い放ち、愛情を失ったことを思い知った彼女は運河に身を投げる。まあ死ぬことはできずに助け出されてしまうが。
再びバイロンと会うことになったパーシー。バイロンは皮肉交じりに「歯はボロボロ、白髪が増えてしまった。淋病にもかかった」などという。この時バイロンはまだ30代前半。やけに老け込んでいた。史実のバイロンは退廃的な生活のせいで、イタリアに住んでいただけに「ピザデブ」になっていたそうだ。指の関節が無くなるほど太っていたとか。晩年は無茶なダイエットをして痩せるが。
バイロンはパーシーに「イタリアに来てからヴェネティアの女は抱いたのか」問う。
「このヴェネティアでは結婚した女性が愛人を持つのは当然な権利だから、君も抱いたのだろう?え、何、一人の女も抱いてない?何をやっているんだ!」
これも「永遠の巡礼詩人バイロン」によれば、当時は本当にその習慣があったようだ。結婚した女性は「一人に限り」愛人を持つことを許され、夫も容認し、情事に耽ってもだれも責めなかったそうだ。
バイロンが夜這いしに行ったとき、オーストリアの兵隊に見つかってしまった。(上記でも述べたが、当時のイタリアはオーストリアの隷属国)
だが賄賂を渡して難を逃れた。それを聞いたパーシーは、バイロン卿とあろうものがそんな普通なやり方でいいのか!なんて失望する(記憶曖昧)
そうして本題のクレアとの間の子、アレグラをクレアに引き合わせるように要望する。だがバイロンは「自分の子だから、私に権利がある」とか言って反論する。これも伝記を読む限りでは、パーシーはこの時あきれ返ったそうだ。英語wikipediaの記述では激怒したとも書いてあった。この後の展開は何やら分からなかったが、史実ではパーシーの説得が実を結び、条件付きでクレアは我が子アレグラに時折会うことは許されるようになる。
もっとも5歳の時にマラリアかチフスで亡くなってしまうが。このエピソードが世間に知れ渡っていたのか、アレグラの死はバイロンは悪くないのにも関わらず、バイロンは世間からかなりバッシングされたという。
バイロンの説得が終わると、クレアとメアリがやってくるが、何やら様子がおかしい。我が子クララに会いたというと、クレアが「現実を見て!クララは死んだのよ!」という。だがそれを信じず、
「いや、医者を呼べばいい!きっとすぐに元気になるはずさ!」
なんて現実を見ない&能天気なことをいうから、メアリが本格的に怒る。
「もともとも体調がよくなかったのに無理やり長旅に連れて来たから死んだ!無理な旅だったのよ!あなたが殺したも同然よ!」
「煩い!僕の計画通りにやらないから駄目だったんだ!計画通りなら死ななかった!」
なんて言い放つもんだから、ついにメアリがブチ切れる。
「あなたはどこまで残酷なのよ!あなたは何か成し遂げることができた!?ハリエットとの子だって親権を得ることはできなかった!」
とかなんとかいって、これまでの不満をぶちまける。
このクライマックスのシーンにおいて、パーシーの人間的な未熟さがこれでもか、というぐらいに浮き彫りにされていた。パーシーは「マンチェスターの虐殺」にも触れて「なぜ争いが無くならないんだ!知識人は何をやっているんだ!」と心の内を叫ぶ。
ここで私はパーシーがもはやただの大人になりきれないただの子供、ずっとピーターパンを夢見てる子供の様にしか見えなかった。虐殺については理想だけでは決してなくならない。ハリエットとの子供の親権の獲得に関しては、自分の権利ばかり主張している。そして自由恋愛主義。自由恋愛主義を唱えるのはいいが、妻ハリエットの同意を得られずに押し付け挙句の果てに破滅に追いやったことを、まだどこか自覚してないように思われる。
この自由恋愛主義、元はメアリの父ゴドウィンが提唱したものだそうで、パーシーもそれに同意した形のようだ。この思想はよく調べていないが、少なくとも舞台のパーシーは「自由恋愛主義」を隠れ蓑に、ただ「色んな女とヤリたいだけ」というのが本音なんだろう?としか見えなかった。実は舞台ではなかったが、史実のパーシーはバイロンを訪ねてイタリアを訪れたとき、ナポリでエリーゼという娘を孕ませ、エリナという私生児を認知している。エリーゼは後に別の男と結婚、その男は後にシェリーに対して強請り行為を盛んにしたそうだ。男性諸君なら、一切の倫理を考えなければハーレム作りたいという本音は理解できるだろう。だが社会や世間体を考えると自由恋愛主義なんて夢のまた夢である。
以上のように、パーシーは度々理想ばかり、自分の都合ばかりを口にしていた。このあたりから私は、パーシーは大人になりきれない、頭の中はガキのままという印象を持つに至った。
史実ではパーシーが無茶な旅を我が子にさせて死なせたため、世間から結構な批判を浴びたという。
最後はパーシーの死、ヨットの事故である。これによりパーシーは死んでしまう。最後にポリドリが現れる。彼らの醜聞を集める為に、バイロンと寝た情婦と寝て情報を集めては醜聞を広めたというような内容だったと思う。そしてメアリとも寝たとも言っていた。
これは流石に創作だろう。パーシーはヨットで死んだころは既にポリドリは自殺しているからである。
以上が舞台の時系列である。記憶が薄れてしまっているので取りとめのない内容になったことはご容赦を。
【その他気になったこと】
時系列は思い出せないが、舞台をみて印象的だったこと紹介していく。まず舞台は結構下品な表現が多かった。ケツにブチ込むとかそんな表現は多々あった。バイロンは少年愛こそ思考とか、古代ギリシア人みたいなことを言ってた。というか舞台中「ギリシャ人は少年が好き」とか、風評被害なことも言い放ってた(あながち間違いでもないが)。
確かクレアが「バイロンにはおできが沢山ある。トルコの少年から貰った」と言ってた。
これは多分梅毒のことだろう。伝記を読むと国外追放の前にマスコミに「バイロンは梅毒にかかったから、妻アナベラとの性生活ができなくなった」なんて根も葉もない噂だとして書かれていた。それに梅毒ってかかれば死に至るというイメージもあったため、バイロンは梅毒に罹患して無かったのではないかとずっと思っていた。実際の所はどうであったのかが結構気になった。
お下品な描写で思わず笑いそうになったのが、パーシーとメアリが喧嘩をするシーン。
「あなたは妹のクレアとも寝た。つまりバイロン卿の子供の頭にあなたはぶちまけたのね!」
と中々直球な物言いは思わず吹き出しそうになった。いや笑っちゃいけないシーンなんだけどあまりにストレート過ぎて笑いそうになった。
ここでずっと気になっていたのが、果たしてパーシーとクレアは本当に肉体関係があったのかということだ。映画ゴシックでもパーシーはクレアと肉体関係を結んでいたということになっていた。だがディオダティ荘の怪奇談義に関係する資料はいくつか読んでいるが、パーシーとクレアに肉体関係があったと書いてある文献は、少なくとも日本語のものではお目にかかったことはない。クリストファー・フレイニングの「悪夢の世界」において、メアリたちがはディオダティ荘で近親相姦に興じているという噂が流れた、ということが書いてあったぐらいだ。そして何より英語wikipediaのクレアの記事。ロバート・ギッティングズという人の主張によれれば「証拠は何一つないが、パーシーとクレアは肉体関係にあっただろう」と、証拠もないのにとんでもない主張を述べていた。これを以前から知っていた私は、パーシーとクレアが肉体関係にあったという説は非常に懐疑的だった。だが今回改めて調べてみると、上記解説した、パーシーが産ませた私生児のエリナ。一説によるとこのエリナはクレア・クレアモントとの間に出来た子であると主張する学者も存在するようだ(英wikipdiaのパーシーの記事)
パーシーとクレアの間には肉体関係はないと私はずっと思っていたが、今回の調査で完全否定することは出来なくなった。。パーシーは自由恋愛主義を唱えていて複数の女性を愛したことも含めて考えると、クレアとの肉体関係を持っていたことは十分あり得る話だ。これ以上調べるとなると研究の領域になってしまうので、後は本物の学者に頑張って頂きたい。
次に気になったのは、ポリドリはあの舞台ではゲイであったのかということ。史実ではゲイであるとは明言されていないが、ほぼゲイに思われている。バイロンとは愛人関係でもあったという説もあった。映画ゴシックでは完全にゲイシェクシュアルになっていた。
舞台を見る限りでは、ポリドリは常識人であり、復讐の為に狂ったという人物描写だった。パンフレットの青柳さんのインタビューを見ると
青柳「それにしてもバイロンもシェリーもモテるんだよね。こればっかりは不思議。ポリドーリは知識もあるし、医者だからお金もきっとありますよ。」
猪塚「でも女子って結局アウトロー好きじゃん(笑)」
どうもこのインタビューを見る限りでは、キャストの皆さんはポリドリのゲイ疑惑には知らないのかもしれない。いや知ってるがインタビューにはそぐわないから言及しなかっただけかもしれないが…
ちなみにポリドリは20歳でスコットランドのエディンバラ大学を卒業するが、法律の違いで故郷のイングランドでは26歳にならないと医者になることはできなかった。そうして働き口を探していた時に出会ったのがバイロン卿である。
【パンフレットを購入】
舞台ではパンフレットやグッズも売られており、パンフレットは当然買うと決めていたが、そこにはこんなものも。
ポリドリ役の青柳尊哉さんの、ビックリマンシール風のミニタオル。思わずつられて買ってしまった。スタッフさんにきいたところ、本当にそのデザインをやってる人が作ったの事。
…で、あとから調べてみたらどうも私がお伺いしたその人は、デザインを手掛けられたレッドシャーク氏ご本人様であったかもしれない。ご本人様であったのなら、つゆ知らず大変失礼しました。
さてパンフレットを購入して部隊が始まるまで読んでいた。パラパラとめくってまず目についたのだが、バイロンの紹介文。
「事実は小説より奇なりを体現したバイロンはどんな人」という煽り文から始まる。
私も「ゆっくりと学ぶ吸血鬼 第12話」では、バイロンとは「事実は小説より奇なり」の一言につきると紹介させて頂いた。やっぱバイロンを一言で表すとしたら、誰しもがこの一言にいきつくんだと思った。
次に目についたのがパーシーシェリーの紹介にあった、当時のフランスの世相。ポリドリの吸血鬼がとくにフランスで流行した原因は、フランスが動乱であったことが関係していると動画で解説させてもらったが、それが非常に分かり易く書いてあった!種村季弘先生の「吸血鬼幻想」は小難しく書いているし、エリック・バトラーの「よみがるヴァンパイア」でも、なにやら回りくどい書き方しているので、理解するのに大分苦労した。この解説文を先に読んでおきたかったなと思った次第である。
そしてパーシーが死んだ時に火葬される絵画が掲載されていた。映画ゴシックやパーシーを火葬する様子を描いた絵画は、大抵バイロンと妻メアリが描かれるそうだ。だが実際は、妻メアリはパーシーの葬式には参加していなかった。詳しいことは分からなかったが、これは当時のイギリスの習慣であったと以前読んだ参考文献に書いてあった。今回掲載されていた絵画は、史実に沿った絵であるから、史実よりの絵画もあるんだなぁと実に興味深かった。
『The Funeral of Shelley(シェリーの葬儀)』(1889)
左から、エドワード・ジョン・トレロニー、リー・ハント、そしてバイロン卿。パーシーは火葬前に一旦砂に埋められていたので、火葬する際は腐敗していた。それを見たバイロンは「まるで羊の死体のようだ」と述べた。舞台では「皮膚は食い破られ、睾丸は食いちぎられていた」とあった。
さてそして次に見たのがポリドリ役の青柳尊哉さんの紹介ページ。ここにはポリドリの紹介も乗っていた。「世界発のヴァンパイア小説「吸血鬼」を手掛ける」とあった。解釈次第ではいかようにも変わるが、やっぱりポリドリの吸血鬼を、最初の吸血鬼小説として見なしていいんだと一安心した。
さて今回パンフレットを見て一番驚愕したのは、このポリドリの解説である。
というか今回の記事はこれが言いたくて投稿したようなものである。
そこには「ポリドリは拳銃自殺した」と書いてあったからだ!
ポリドリは「シアン化合物を飲んで服毒自殺した」というのが一般的。海外サイトでもまずこの説しかみない。唯一違う説を唱えていたのは、クリストファー・フレイニングが「悪夢の世界」において
「馬車から転落して死んだ。それをバイロンが(悪意をもって)自殺したと直ちに広めた」
という説を唱えている。だが他に唱えている人がいないから、ポリドリは服毒自殺説でまず間違いないだろうと思っていた。
そこに拳銃自殺したと書いてあるんだからびっくりした。ツイッターを検索してみても、拳銃自殺説に驚いている人が見受けられた。この根拠となる情報元が知りたいところである。
そしてさらに驚愕したのが次の一文だ。
メアリーは多少悪意もあり「フランケンシュタイン」に登場する邪悪な教師をポリドーリと名付けるが、その復讐に、ポリドーリは物語の筋を自分が提供したとの偽りの主張をした。
これも始めてみる解説で非常に驚いた。小説「フランケンシュタイン」は現在、色々追記・改定した第三版が出版され日本語訳もまず1831年の第三版が底本にされるが、その第三版にはポリドリの名前は出てこない。もし調査をするのならば1818年に出版された初版を確認しなければならない。流石に今回はそこまで調査をする余裕がなかった。もし独自に調査された方がいらっしゃれば、連絡をお待ちしています。
マシュー・バンソンの「吸血鬼の事典」には「ポリドリはメアリを一目見て気にくわなかった」と解説しているが、私はこれは信憑性が低いとみていた。
荒俣宏先生の「怪奇文学大山脈Ⅰ」の解説によると、ポリドリが吸血鬼を発表したとき、バイロン作だとして広まった時「これは私の作品であり、ある婦人(メアリ)の依頼によって書いたものである。その婦人がそれを証明してくれる」と、吸血鬼の投稿の翌月に掲載されたと紹介しているからである。
二人の仲が悪ければこんな文をポリドリが書くはずがない。だからメアリとポリドリの中は悪くなかったと私は思っていた。だが今回のパンフレットの解説ではどうもそうではないらしい。
今回調べて思ったが、やはり昔の出来事だからどうしても諸説が入り乱れており、どれが正しいのか判断がつけるのは難しいなと感じた。そもそもディオダティ荘の怪奇談義を提案したのは、平井呈一の「吸血鬼ドラキュラ」の巻末解説によれば、マシュー・グレゴリー・ルイスであるとしている。実際はどうだったのかが気になるところだ。海外の学者の研究に期待するしかないだろう。
【まとめ】
取りとめなく感想を書いてきたが、今回の舞台を見て思ったことは、今回の舞台を理解して楽しむには、当時の時代背景、登場人物に纏わる知識は必要になるんじゃないかと思った事だ。映画ゴシックでもそうだが、ある程度のリアル知識があること前提に舞台が作られていると感じた。まあ海外の怪奇文学好きには「ディオダティ荘の怪奇談義」はもはや常識であるから、馴染の無い日本人にはやや敷居が高いと思った。
私は吸血鬼解説である程度のことは調べていたから細かいネタを見つけては「にやり」としていた。例えば度々出てきた「イグザミナー」。バイロンの伝記を読めばイグザミナーがどんな新聞社であったかがよくわかる。
他にはバイロンが冒頭で何度も上げていた「出版社のジョン・マレー」
ジョン・マレーはバイロンの友人で、バイロンの作品を出版を手掛けた人物。バイロンが金銭面で困窮したとき、無償で与えようとしたとき逆に断る。逆にそのお金を尊敬する次の3名に当てるように要望する。その3名とは、メアリとクレアの父ゴドウィン、舞台でも名前が出ていたクリスタベルの作者コールリッジ、そしてオスカー・ワイルドの大叔父のマチュリン。
舞台でも朗読していたクリスタベルは、バイロンが支援をすることによって、十年以上の時を経て出版にこぎつけた作品である。この作品は後に吸血鬼カーミラやドラキュラにも影響を与えたとされているので、この時バイロンが支援をしなければカーミラもドラキュラも内容が変わっていたかもしれない。そう考えるとバイロンはとことん吸血鬼に縁のある人物であるといえる。
あとジョン・マレーで思い出したが、舞台中にポリドリが「とある出版社からバイロンの伝記を秘密裡に、500ポンドで頼まれた」という台詞があった。この出版社について劇中では言及がなかった。実はこの依頼をしたのがバイロンの友人でもあるジョン・マレーである。ここで気になるのが、「バイロンは自分の伝記をポリドリが書いてあることを知らなかった」とする文献と「バイロンは当然知っていた」とする文献が混在していることだ。映画ゴシックでは「ポリドリは僕の伝記を書いてくれている」と言っているので、「バイロンは知っていた説」を採用していた。ポリドリが妹に宛てた手紙には「バイロン卿は僕に500ギニー(ポンドのこと)提供してくれた」とある。さらに依頼者がバイロンの友人関係であったジョン・マレーである。マレーは上記でも解説したように、生活に困窮したバイロンに無償で金を与えようとしたぐらいの人物だ。そんな人物が友人をだまし討ちするような真似をするとは、ちょっと考えにくい。なので私は、「バイロンはポリドリがマレーからお金を貰って伝記を書いていた」説が有力だと思っている。が、今回の舞台を見てやっぱり実際のところはどうだったのか、ずっと気になって仕方がない。
今回の舞台を見て内容を補完したいと思った方は、ぜひ楠本晢夫・著「永遠の巡礼詩人バイロン」を読んで頂きたい。舞台はパーシーが主人公なのになぜバイロンの本?と思われるかもしれないが、今回のディオダティ荘に集まるあたりからパーシーが死ぬまでの間のことはこの本で大体網羅されている。それに先程も言ったように、イグザミナーとかジョン・マレーとか、またイタリアでブチ切れていた女性とか、バイロンがポリドリにいった3つの事とか、全部書かれているからである。私も帰ってからこの本を読み返すと「ああ、これはそういうことだったのか!」という発見がいくつもあった。なかなか読みごたえがある本なので、舞台が気になった人はぜひ読んで頂きたい。舞台の内容の理解がより深まることは間違いなしである。
一つ注意する点を挙げるとすれば、著者の楠本氏がバイロン好きな人であり、かなり好意的にバイロンを紹介しているという点だろう。
後は、メアリシェリーのフランケンシュタインのまえがきや、吸血鬼関連本を合わせて読むといいかもしれない。だがそんな時間ないよ!という方は、ぜひ拙作「ゆっくりと学ぶ吸血鬼」をご覧いただきたい。舞台でも朗読していたクリスタベルの解説や、ポリドリ作「吸血鬼」を劇で再現していますで、ぜひご覧ください!(ここぞとばかりに宣伝)
ただ今回の舞台、バイロンの伝記を読んでいても理解できない部分も沢山あった。それはバイロンの文学性、思想、哲学、そして西欧文学の基礎知識に関することだ。序盤はパーシーとバイロンとでいろんな思想や文学を語り合うのだが、シェイクスピアの名前は聞いたことがあっても実際には読んだことないので、一体何を言っているんだ…ということがあった。バイロンが語る思想や哲学も言ってることの意味がさっぱりだった。こうしたことを理解するには、メジャーな西欧文学を読み、また当時の時代背景や思想、哲学について学ぶ必要があるということを思い知った。
ここまでの長文にお付き合い下さり、ありがとうございました。今回の記事は半分自分用の忘備録として作成しましたが、何かのお役に立てれば幸いです。
誤字脱字は見つけ次第、順次修正していきます。
(これだけの長文なので、変な文法はどんだけ修正しても出てくる…)
舞台中言及があったコールリッジの『クリスタベル』は、私が動画で解説した以外にも、実際の日本語訳がcygnus_odile氏のサイトで読むことが可能。未完成の作品で中途半端なところで終わる。未完成なのは、この独特の韻律を、サー・ウォルター・スコット、ワーズワース、そしてバイロン卿がパクって先に発表したから。コールリッジも「バイロンはクリスタベルの韻律をパクって、『異教徒』という詩を発表した」と愚痴っていた。でいう、絵柄のパクリとかパクツイしたようなもん。
そんなバイロンが後年、コールリッジのクリスタベルの出版を支援するというのだから、人生何が起こるか分かったものではない。(参照ソース:リンク先のPDFの11ページ目)
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